鎖国の狙いは、商業勢力の力を削ぐことにあった?~戦国時代、商業勢力の国際的なネットワーク~

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ヨーロッパ列強は大航海の時代に南米大陸に次いでインド・東アジアに進出する、それに伴って東アジアは争乱の時代に突入していくが、鎖国はそれに対応して国内外の情勢を冷静に抑えたうえで実施された政策である。教科書ではあたかもキリスト教対策をその主要な狙いとして挙げているが、教科書はその奥にあった国内外の情勢変化を捨象していると言わざるを得ない。

■日本の商業勢力は既に国際的なネットワークを持っていた

応仁の乱(1467年)以降日本は本格的な戦国時代に突入するが、内乱期に入ったのは日本だけではない。東アジア全体が争乱期に突入していた。 明はそれまでのモンゴルの侵入に加え16世紀にはいると、西方中央アジアからの侵入をうけ、トルファン王の侵入、アルタン汗の侵入が30年間も続く。そして明王朝内部の腐敗とあいまって、明の国力は落ち、国全体に対する統治能力は低下の一途を辿った。最終的には明は1636年女真族の侵入を受け「金」(後の清)が建国され滅亡する。 この明の衰亡過程においては、献上品に対して、数倍の利益を供与する朝貢貿易は多大な負担となり、日本、琉球、朝鮮等を除いて海禁策が取られ、対外交易は大幅に縮小されていく。その結果国家交易は私貿易に取って代わられ、この私貿易(密貿易)を担ったのが、対馬、台湾、東南アジアなどに拠点を持つ「倭寇」であった。 彼等はある時は商人、あるときは海賊として中国、朝鮮等を襲撃するなど猛威を振るう。日明貿易が幕府の統制下にあった時には、幕府は渡唐船警護の命令を、対馬の宗氏、北九州の松浦氏・大友氏等、そして瀬戸内海沿岸の守護に出している。当時の守護大名は倭寇と深く結びついていた。幕府の貿易船は、これらの地域の海賊、倭寇たちに警護されて航海していたのだ。しかし、幕府の力が衰弱し、倭寇の統制が取れなくなってくると彼等は幕府の手を離れ有力大名や商人と結びついて「私貿易」の主導権を握るようになる。 因みに鉄砲もザビエルが鹿児島へ渡ったのも、ポルトガル船によるものではなく、倭寇勢力の船によって運ばれたものである 。ポルトガルは、倭寇勢力に導かれて東アジア交易に参入したのである。 その後秀吉の海賊禁止令によって倭寇は衰弱し「南蛮貿易」に移行するが、南蛮交易とは、新たに始められた貿易形態ではなく、倭寇勢力によって従来からなされていた私貿易・密貿易に、ヨーロッパ勢力が参入し、倭寇を傘下に置いたものである。

■当時日本は世界最大の銀産出量を誇っていた

この東アジア交易の中心は明が海禁政策をとっていたこともあって「日本」となるが、それには大きな理由があった。東アジア交易網の決済通貨は銀であったが、中国での銀の産出量が低下し国際交易が発展するにつれて、深刻な銀不足が生じた。この中で、密かに朝鮮から灰吹き法の技術が日本に持ち出され、この技術を応用した石見銀山などが各地で開発されるにつけ、日本産の銀の生産量は膨大に膨れ上がり、銀は日本を代表する輸出品となった。 しかも日本での銀の産出量が増えるに従って日本での銀の価格は低下し、価格の安い日本で、中国産の生糸・絹織物や陶磁器、さらには朝鮮産の綿布や東南アジア産の香料や香木などと銀とを交換して銀の価格の高い中国に持ちこみ、それで中国産品を買って東南アジアへもたらせば、その銀の価格差によって利益を倍増することが可能になったのである。 日本銀と中国生糸の交換を中軸とするマカオー長崎の中継ぎ貿易は、一航海で5倍から10倍もの高い利益をあげたという。当時の日本の銀の産出高は年間約20万kg。世界中の銀の産出高の3分の1を占め、アメリカ大陸の産銀高に迫るものであったと推計されている。諸外国の商人たちは日本の銀を求めて群がったのである。

■秀吉の朝鮮出兵

1592年秀吉は朝鮮に出兵するが、その際に注目されるのは、朝鮮、台湾、フィリピンに対して朝貢即ち服属を要求していることである。朝鮮出兵は教科書では秀吉個人の妄動に近い記述のされ方をしているが、出兵の是非の議論はともかくとして、単なる個人の盲動とは到底いえない。明は北方の女真族の侵入に手を焼き兵を動かせない状態にあったこと、そして何よりも日本が「銀」の力を背景に東アジアの交易の中心となっており、東アジアを統べる政権が不在の中で、日本を中心としたアジアの新秩序を構築しようとした等の背景は見逃せない。それらの状況を受けて公家等を中心に「神国日本」によるアジア新秩序というイデオロギーが隆盛していた。 朝鮮出兵については「領土拡大」を目論んで勇躍して戦陣に加わった大名も多くいた。(小西、有馬等のキリシタン大名始め九州、四国の諸大名が中心となって出兵された)また朝鮮やアジアへの出兵を推奨する大商人も数多くいた。これらは秀吉の考えが彼個人の「妄動」ではなく、これを積極的に推進しようとする一大勢力がいたことを物語っている。 朝鮮出兵は漢城(ソウル)を攻め落とすなど、当初は勝利を続け、秀吉は天皇の北京動座とそれを護衛しての関白秀次の出陣などを矢継ぎ早に命令するが、これは徳川家康と前田利家の強硬な反対に合って頓挫する。

■鎖国政策は商業勢力を封じようとする狙いがあったのではないか?

朝鮮出兵は失敗し、徳川幕府による朱印船貿易に移行する。朱印船貿易とは 日本の統一権力である江戸幕府が、アジアと日本とを結ぶ貿易に従事する船に対して航行の安全を保障するというものである。これは日本を中心とする東アジア通交圏を確立することを意味するが、秀吉の武力侵攻路線ではなく中立共栄路線を採ったものである。それに応じて最大10万人の日本人が交易に従事し、約一万人が海外に居を構え日本人町を構成した。 しかし、この幕府の政策は、明が崩壊過程にある中、各地域の混乱を日本が受けとめねばならない状況を招くものでもあった。実際ポルトガル船や東南アジア船は度々衝突し、その沙汰は幕府に持ち込まれた。更に多数の日本人が傭兵として諸外国の権力闘争に介入し始めた。そればかりではない、もたらす利益が莫大なため、朱印船状の偽造が幕府高官を巻き込んで横行し始めた。当時朱印船交易に携わったのは大商人や、豊臣側に与する、西国大名やキリシタン大名である。拡大する交易によって銀の流出も激増し、国内経済にも影響を及ぼし始めた。 これらの事態を前に、幕府は大阪の陣で豊臣家を滅ばすと、徐々に交易の制限と統制を強めていく。そしてポルトガルによる日本の生糸輸入を独占し、最終的に日本人の渡航と帰国を禁ずる。これらの過程を見ると、幕府による鎖国の狙いは、単にキリスト教対策に留まらず、国内経済を優先し銀価格の統制を図ること、そして国際的な商業・金融ネットワークと結びつく勢力の手足を封じ込め、国内を安定させることにあったという可能性が高いと思われる