明治初期、黎明期の教育制度。地方の実体を反映した柔軟な「教育令」から中央集権による強力な「学校令」へ

日本を守るのに右も左もない さんからの情報です。


 

現代の教育制度は明治時代に作られました。
その目的は欧米列強に追いつく「豊かな国家」「強い軍隊」を作る為の制度です。
一糸乱れぬ従順な兵隊を作る為に考え出された、全国一律の学校制度と教育方針。

これまで庶民の教育は、読み書きそろばんを教える「寺子屋」な担っていました。
寺子屋は完全な私学であり、地域の実情に合った教育が行われていました。
果たして全国一律の学校制度、「学制」は当時の庶民、特に農村の実態とは合わず、猛反発を受けます。

明治政府は強力な指導力で改革を推進した!と思われがちですが、
教育制度はそのような庶民の反発を受け、柔軟かつ漸進的な改革に切り替わりました。
当時はまだ政府の力も弱く、なにより江戸時代に培われた地方自治の色合いが強く残っていたものと思われます。

現代に至る学校制度、その黎明期の様子を、「BUSHOO!JAPAN」さんの記事を抜粋引用しながら紹介したいと思います。リンク

 ■教育令
学制発布の7年後、明治12年(1879年)に改めて「教育令」を出し、より実情に沿った学校制度の普及を目指す。その教育令も全面改正が三度実施される。

 ・第一次教育令
初期教育からということで、小学校の普及に注力。
「地域の実情に即した教育課程を、各自治体の委員と教員が作る」ことなどが定められる。
また、児童の就学は最低16ヵ月(=1年4ヶ月)

 ・第二次教育令(1880年)では、明確な規定が盛り込まれる。
「児童は小学科三年課程を修了するまで毎年十六週日以上就学しなければならない」
「カリキュラムに現在の道徳にあたる「修身」や、儒教の考え方を導入」等。
いきなり欧米風を取り入れるのではなく、日本の慣習や儒教等、実情に沿わせた改革が行われる。

 ・三次教育令(1885年)。
このとき「小学教場」という簡易版小学校のような教育機関が作られる。
小学校よりも規定や教育内容が緩く、寺子屋や私塾に近いイメージ。
「小学校と比べると簡易な教育しか受けられないが、授業料は徴収しない(区町村費でまかなう)」
これによって、安心して子供に教育を受けさせるようになった家も多かった。

 ■学校令
明治19年(1886年)には、教育令が「学校令」と総称されるいくつかの法律に切り替わる。
学校令は一つの法律ではなく、以下の4つの法律をまとめて呼んだもの。
・小学校令
・中学校令
・帝国大学令
・師範学校令

特に小学校令では「子供に教育を受けさせるのは両親の義務である」という点が明記される。
ただし、病気や家計の困窮・その他やむを得ない事情がある場合には、期限付きで就学猶予も認められていた、。
こうして明治30年代には男女ともに小学校就学率が90%を超えるようになる。

以上
これ以降学校制度は、現代に繋がる一律で強制的なものへと発展していきます。
現代の学校を巡る様々な問題はここに原点がある事、それ以前は共同体に根差した教育が、市民の手で創られていた事に注目する必要があると思います。