国際情勢の大変動を見抜く!-38~ワシントン会議は日英同盟を終了させ日本の中国での動きを制限するための策略~

「金貸しは、国家を相手に金を貸す」さんからの情報です。


 

ワシントン会議

ワシントン会議は日英同盟を終了させ、日本の中国での動きを制限するための策略だったとのこと。その間にソ連を操り中国に深く介入していったようです。

 

ワシントンと言えばいわばイギリスの出先機関であることは以前の記事で紹介した。(以下)

>国家の基盤である通貨発行権をワシントンD.C.というシステムによって合法的に奪ったのだ。

>アメリカ市民の税金は・・・67%がイギリス王室(を中心としたヨーロッパ王族、貴族)に渡され、残る23%はワシントンD.C.の株主に、そして残る10%はIRSの経費となっている

『2016年世界情勢はこうなる!6~ワシントンD.C.を乗っ取ったヒクソス~』

 

となると、日英同盟終了はイギリスも関与しているのではないか?という疑問が生じる。ただし、イギリスと言っても王室と政府とは全くことなる存在であるはず。イギリス王室はいわゆる奥の院。ここは世界戦略を試行している。そういう意味では、アメリカ対イギリスという構図を維持していた方が有利だったということだろう。

 

その中で特に民族意識の高い日本は世界戦略上の邪魔者という扱いを受けてきたのだ。

 

『知ってはいけない現代史の正体』(馬渕睦夫 著)からの紹介です。

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■1921~1922年 ワシントン会議

◇通説   :米英の支持で中国の主権尊重と領土保全が約束された。

◇歴史の真相:ワシントン会議こそが大東亜戦争開始の火種となった。

 

●アメリカの孤立を防ぐための軍縮協定

 

そもそもウィルソン大統領の名で提言された国際連盟でしたが、上院の反対でアメリカは参加できませんでした。これが1921年のワシントン会議をアメリカが招集することになった最大の理由です。時の大統領は共和党のウォレン・ハーディングでした。

 

ハーディング大統領の目的は、「満州、中国における日本の行動を封じ込めること」でした。第一次世界大戦を経て日本の国際的地位は、ヴェルサイユ講和会議に五大国の一国として参加するほど向上していました。国際連盟には常任理事国として迎えられています。

 

日本とイギリスとは同盟関係にありました。アメリカは国際的孤立を懸念して大規模な海軍拡張を画策します。日英両国もまたそれに対抗して軍備拡張を始めます。そこでアメリカは軍縮協定を結ぶためにもワシントン会議の開催を必要としました。

ワシントン会議は別名「ワシントン海軍軍縮会議」と呼ばれます。軍縮が重要な議題となり、結果、主力艦の比率がアメリカ:5、イギリス:5、日本:3、フランス:1.75、イタリア:1.75に制限されました。ここで一つ重要なのは、アメリカの統治下にあったハワイ、イギリスの統治下にあったシンガポールは制限から除外されていたことです。このことは後、大東亜戦争に大きな意味を持ちました。

 

広範にわたる植民地を守る海軍力がアメリカと同等に抑えられてしまったのは大英帝国にとって大きな痛手でした。一方、日本に比較6割の軍縮を飲ませたのはアメリカの勝利と言えましたが、日本の勢力範囲は西太平洋に限られていましたから、実際上は、決して屈辱的な結果ではありませんでした。

 

ワシントン会議において日本の死活問題となったのは、実は軍縮ではなく、「日英同盟の終了」と「九ヵ国条約の締結」です。

 

●アメリカが切望した日英同盟の終了

 

ワシントン会議では日英米仏の間で「四ヵ国条約」が結ばれました。列強が利権をせめぎあう太平洋方面の国際秩序を共有するための条約です。「紛争の平和的解決」と「太平洋における加盟国の既存の権利を尊重すること」を謳っているだけで、これらを担保する具体策に言及していない点で、この条約は何の意味も拘束力もない紙切れにすぎません。問題は第4条に記された「日英同盟の終了」です。これこそがアメリカの目的でした。

 

アメリカは満州進出を狙って、日露戦争後にロシアから日本に割譲された南満州鉄道の中立化を提案していました。日露はもちろん、イギリスもこの提案を支持しなかったのは日英同盟があったからです。日英同盟は日本にとって、五大国の内の一国としての国際的地位を担保するものでもありました。日英はともに同盟の存続を希望していましたが、結局、アメリカの圧力から、「四ヵ国条約」によって同盟に終止符を打つことになります。

 

 

●九ヵ国条約こそ大東亜戦争の直接の期限

 

アメリカにとってワシントン会議における最大の成果は「九ヵ国条約」にありました。アメリカにとっての最大の成果、ということは、日本にとっての最大の敗北、ということになります。

 

日米英仏伊の五大国に、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルが加わって九ヵ国です。九ヵ国条約は「中国に関する」九ヵ国条約であり、中国の「主権」「独立」「領土保全の尊重」「門戸開放」「機会均等主義」の順守が謳われていました。とりわけ注意しておきたいのは次の2つの条項です。

 

「友好国国民の権利を損なう特権を求めるため支那の情勢を利用したり、友好国の安寧を害する行動をしないこと」(第1条第4項)

 

「支那における門戸開放又は機会均等を有効ならしむため、支那以外の締約国は支那における経済的優越権を設定せず、他国の権利を奪うが如き独占権を認めない」(第3条第2項)

 

これが、たとえ我が国が既存の権益を守るために行った防衛的行為であっても、9ヵ国条約違反として国際的に非難される口実を与えることになりました。例えば、時のハーバート・フーヴァー米大統領政権下の国務長官ヘンリー・スティムソンは、フーヴァー大統領は一定の理解を日本に示していたにもかかわらず、後に「スティムソン・ドクトリン」と呼ばれることになるきわめて反日的な態度をとりました。

 

スティムソンは、1931年の満州事変の際には「9ヵ国条約ならびにパリ不戦条約違反である」として、満州における日本の行動への「不承認主義」を明らかにし、事変の解決をいたずらに遅らせました。前掲したパトリック・ブキャナンの『不必要だった2つの大戦』によれば、スティムソンは《平和のために常に戦争を辞さない平和主義者》であり、《恒久平和のための永久戦争の信望者》でした。まるで共産主義者が使うレトリックです。

 

そして9ヵ国条約にはもう一つ、大きな問題がありました。そもそも、なぜこの条約は必要だったのでしょうか。大国が寄ってたかって面倒を見なければならないような中国という国がこの時、果たして国家と呼べるような存在だったのかという問題です。

 

●信頼に値する政府が存在しなかった中国

 

1911年の辛亥革命以降、中国は内乱状態にありました。段祺瑞の北京政府、後に蒋介石が南京政府として後継する孫文の広東政府、共産主義者による武漢政府の、少なくとも3つの政府がありました。

 

9ヵ国条約のように多数の諸国が中国について取り決めを締結すること自体、国際社会が、中国には信頼に値する統一政府が存在せず、したがって中国はまともな独立国ではない、と見なしていたことの証拠です。9ヵ国条約は、中国の主権や独立を擁護する条約などでは決してなく、その無政府状態を利用して列強各国が抜け駆けをしないよう、互いを牽制しあう取り決めだったのです。ワシントン会議以降、わが国の中国対策が泥沼化していくのは、中国に統一政府が存在せず内戦状態にあったからに他なりません。

 

また、9ヵ国条約にはソ連が入っていなかったことにも注目すべきです。つまり、9ヵ国条約に参加していない以上、ソ連は中国、満州、外蒙古において自由に行動することが出来ました。1921年に始まるそれの外蒙古への進行や傀儡政権の樹立について、アメリカは一切、批判も抗議も行っていません。満州や中国本土での日本の行動に対しては厳しい態度で挑んでいたにもかかわらずです。

 

アメリカは実情を正しく理解した上で、ソ連の侵略行動を是認していました。自らが生みの親であるソ連の共産主義政権を守護し、さらに言えば、アメリカの世界戦略の一端をソ連に担わせていました。後の第二次世界大戦は、正統派歴史観が言う「民主主義国家」対「全体主義国家」の戦いではなく、「世界赤化勢力」対「反共産主義勢力」の戦いです。「国際主義」対「民主主義」の戦いだったということもできるでしょう。