学校教育の転換点。今求められる「教育」とは何か

日本を守るのに右も左もない さんからの情報です。


 

学校教育が、一つの転換点を迎えています。

現代の教育制度の問題点の一つとして、教育現場の極端な「画一化」「マニュアル化」があります。
「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」という慣習化されたシステムです。

平等絶対と事なかれ主義の顕著な事例ですが、現実にそぐわないこのシステムは、子供達だけでなく、先生達をも縛る結果を招いています。
教育現場の問題が論じられる時、あたかも子供たちがその被害者の様に語られますが、現場の先生もまた大きなストレスを抱えています。

実際の教育現場で直接子供と接する先生たちは、子供一人一人は、性格も発育も大きく違うという現実に触れています。生徒一人一人に寄り添う教育が必要とされているという認識と志を持った先生たちも数多くいます。

しかし現状、「画一化」がお上からの至上命題であり、それに従うしかない自治体や公立学校では現場の裁量は大きく制限される。
現実に立脚しない方針の元、「言われたことを、言われたとおりにやる」しかない状況に置かれ、その矛盾に悩み活力衰弱をする先生もまた増えています。

 生徒たちの活力衰弱は、個々の生徒や先生の問題では無く、現在の教育制度そのものに根本原因があります。

以下、より具体的で生々しい事例として
「東洋経済」さんの記事から、以下の記事を紹介します。リンク

小学校教師を「がんじがらめ」にする悪習の正体
【教師たちを縛る「スタンダード」】
その1つの象徴的な例が、「◯◯スタンダード」なるものです。すべての先生の授業の方法を統一し、時に「めあて」を何色のチョークで書き、「まとめ」を何色のチョークで囲むか、といったことまで決める授業スタンダードや、子どもたちの持ち物を統一し、時に机のどこにどの筆記具を置くかといったことまで決める学習規律のスタンダードなど。

 かつてあれほど、日本の教育の画一主義が批判され、その反省から、多様性の尊重や個に応じた指導などが言われるようになったのに、いつしか多くの自治体や学校が、またぞろスタンダードという名の画一化に舵を切るようになっているのです。先に紹介した、何らかの「話型」をスタンダードにしている自治体や学校も少なくありません。

 (中略)

 【教師も子どもたちも「枠」に縛られている】
授業方法の行きすぎた統一は、教師の思考の自由を奪い、創意工夫を妨げることになるでしょう。あまりに細かな「求める生徒像」は、子どもたちを過度に枠にはめてしまうことになるでしょう。
 筆箱の中身から下敷きの色にいたるまで、時に箸の上げ下げにまで口出しをするようなスタンダードの徹底は、結局のところ、教師からも子どもたちからも、「自分で考える」力や機会を奪ってしまうことになるでしょう。わたしの下には、スタンダードやそれに類するものに苦しんでいる、全国の多くの先生や子どもたちの声が毎日のように届いています。
教師にとっても子どもにとっても、成長のために必要なのは、言われたことを言われたとおりにさせられることではなく、自分の頭でしっかり考え、試行錯誤し、たっぷり失敗し、その失敗から学んでいく経験であるはずです。
管理監督、画一化、スタンダード化。多くのリスクにさらされた学校現場で、行政や教師がそうしたものに頼りたくなる気持ちはよくわかります。でもわたしたちは、本来、自由な思考やコミュニケーションや探究が保障されたところでこそ、本当に力強く成長することができるはずなのです。

以上、引用終わり。

この世の中には、「画一的」なものなどまず存在しません。
現実社会に出て様々な人や仕事と接すれば、画一思考、マニュアル思考では全く歯が立たない事がすぐにわかります。

さらに、私たちを取り巻く自然環境は常に変化します。
その変化から一定の自然法則を見いだせたとしても、自然は時に人智を凌駕する凶暴な姿を見せます。
人類は、常に変化する周辺環境に同化、適応する事で進化を遂げてきました。
それは生き残る為の適応戦略であり、時に大きな犠牲を出しながらもそれを受け入れ、そして様々な思考錯誤や柔軟な追求が人類の生きる力になってきました。

「画一化」「マニュアル化」とは、言わばこの「生きる力」を奪う事に他なりません。
人類の進化や生命原理に反する物であり、活力衰弱は必然と言えます。

なぜ学ぶのか。
それは成績や出世の為ではなく、生命としての「生きる力」「適応する力」を獲得する為です。
昨今の教育現場の活力衰弱は、私権統合の崩壊から来る既成の教育制度の限界からくる必然であり、同時に本来の「生きる力」を育む教育とは何なのか、の潜在思念レベルでの探索が始まった、その萌芽ともいえるのではないでしょうか。