1920年1月10日 国際連盟の設立

第一次世界大戦の結果何が起こったのか。

一番大きな動きは、国際連盟が設立されたことです。国際連盟設立で誰が一番得をしたか?

国際連盟というのは国際主義を推進するための機関であり、言い方を換えると各国の主権を制限するもので、これはユダヤ思想そのもの。

シオニスト運動指導者のナホム・ソロコウは「国際連盟はユダヤ人の発想である。25年の戦いの後それをつくった」という発言をのこしている。

世界の国の主権を廃止し、世界から国境をなくし、世界統一政府を作ろうとするグローバリズムである。国家の主権を超えて、各国の上に国際連盟というものを置く。

これは世界統一政府に向けての第一歩であった。

国際連盟はアメリカのウィルソン大統領が提唱したものであるが、各国で設立受け入れの気運が高まったのは、2000万人もの戦死者を第一次世界大戦が出したから。

この荒廃ぶりを見て、文明国がこのような悲惨な戦争を二度としてはいけない、世界平和のための「新しい秩序」をつくろうということになり、よって国際連盟が設立された。

今までになかった新しい秩序をつくるには、既存秩序の崩壊が前提となる。安定した世界の中では新秩序が生まれない。


第1次世界大戦と国際連盟の設立

19世紀末から資本主義は帝国主義の時代に入った。帝国主義諸国は資源と市場を求めて争い合い、1914年遂に人類史上初の世界大戦の勃発に至った。アメリカ連邦準備制度の実現の翌年だった。
第1次世界大戦は、英仏対独の戦いを主軸とした。この戦いの帰趨で決定的だったのは、アメリカの参戦である。アメリカは強力な工業力と軍事力を発揮して、英仏をドイツに勝利せしめた。大戦後、戦いで疲弊した西欧諸国は、アメリカの経済力に頼らざるを得なくなった。イギリスの支配集団は、こうしたアメリカを金融的・政治的・外交的にコントロールすることで、英米の連携による覇権の維持を画策した。アングロ・サクソン=ユダヤ連合による覇権の強化と言うことができるだろう。
グリフィンは、エドワード・マンデル・ハウスについて「第1次世界大戦の際には、アメリカ人の中で誰よりイギリス側に立ってアメリカの参戦に尽力し、それによってモルガン商会の英仏に対する巨額債権を救った」と書いている。
ウィルソンは平和主義者として知られ、1914年7月の第1次大戦勃発時、「それはわれわれと何ら関係のない戦争であり、その原因もわれわれには関わりがない」と参戦しない方針を打ち出して、国民に支持されていた。そして、アメリカは中立国の立場を利用して交戦国双方と通商を行って大きな利益を上げていた。
アメリカは、ドイツが無制限潜水艦作戦を行ったことに対して、1917年4月にドイツに宣戦布告した。アメリカは受動的で、やむをえず参戦したかに見える。しかし、実は以前から、ウィルソン政権は参戦を計画していた。16年、ウィルソンが2期目の当選を果たす10ヶ月前、ウィルソンの代理としてハウスが、アメリカが連合国側に味方して参戦する方向で英仏と秘密協定を結ぶ交渉を始めた。ウィルソンはその密約をもとに、参戦の機会をうかがっていたのである。
グリフィンによると、「ハウスとウィルソンの最も強い絆は世界政府という共通の夢だった。どちらも、アメリカ人はよほどのことがない限り世界政府という考え方を受け入れるはずがないと承知していた。そこで、長期にわたる血なまぐさい戦争が起これば、そして戦争に永久的に終止符を打つためだということなら、国家主権が失われてもやむをえないとアメリカ人は納得するだろう、それしかないと考えた」と書いている。世界政府の実現とは、ロスチャイルド家の目標である。
ロスチャイルド家のもくろみは、世界政府を実現するために、戦争を利用し、戦争が長引き、諸国民に厭戦気分が高まったところで、世界政府の構想を打ち出すという計画だったと見られる。
第1次大戦は、誰もの予想に反して長期化した。その間に、ロシアでは1917年10月に共産革命が起こった。ロシア革命の成功は、巨大国際金融資本家が共産主義者を支援しなければ、不可能だった。この点については、後にロシアの項目に書く。
大戦は消耗の果てに、ようやく18年11月に終結した。ウィルソン米大統領は、講和会議で国際連盟の構想を打ち出した。
第1次大戦の戦後処理のために、パリ講和会議が行われた。ウィルソンは、ハウスを中心とする代表団を連れて会議に臨んだ。議員は一人もつれず、代表団は彼の取り巻きや銀行家で占められていた。講和会議にはフランスのエドモン・ド・ロスチャイルド男爵が参加し、会議の展開を方向付けようとした。これに対し、ウィルソンは、秘密外交の廃止や軍備縮小、民族自決、国際連盟の設立などを唱えた「14か条の平和原則」を提案した。14か条は、ハウスが中心となって策定した。講和会議の期間、「ハウスは英米両国の円卓会議グループのホストを務めた」とグリフィンは書いている。ハウスは、英仏等の代表に14か条を受け入れさせるために行動した。しかし、英仏はドイツへの報復を主張し、平和原則は実現を阻まれた。講和会議で採用されたのは、国際連盟の設立のみだった。しかもそれは、巨大国際金融資本家たちの思い通りには、いかなかった。
国際連盟の構想は、ハウスが中心になって立案し、ウィルソンが講和会議で提案した。国際連盟の設立の根本に、恒久平和のために、各国が主権の一部を委譲して世界政府を作るという構想があった。その構想は、ロスチャイルド家等の国際金融資本家が望むものだった。もしウィルソンの構想どおり実現すれば、英米のアングロ・サクソン=ユダヤ連合が中心となって、国際秩序を管理する組織が、ここに誕生したかもしれない。
しかし、アメリカは、国際連盟に加盟しなかった。アメリカ国民の間では、伝統的なアイソレイショニズム(不干渉主義)が根強かった。議会はウィルソンの提案を退け、ヴェルサイユ条約の批准も、国際連盟の加盟も否決した。このため、国際連盟構想は失敗した。当時、アメリカは、世界随一の存在になっていた。アメリカを欠く国際組織は、基盤が脆弱だった。
世界政府の構想は、遅くとも1910年代に英米の支配集団に芽生えた。起源をどこまでさかのぼり得るかわからないが、共産主義の思想は、理論的にプロレタリア独裁による世界政府の樹立が導き出される。それに対抗するには、ブルジョワジーによる世界政府の樹立が構想される。むしろ、共産主義の統制主義国家群を取り込む形で、この資本主義世界政府が企画されたのだろう。企画実現を主導するのは、英米である。その構想の第一歩となったのが、国際連盟と考えられる。しかし、国際連盟はアメリカの不加盟によってつまずいた。そこで、英米主導で世界政府を目指す新たな動きが続けられることになった。

 


「一般教養:世界の窓」より

第一次世界大戦後に設立された、世界最初の国際平和維持機構。

 国際連盟 League of Nations は、アメリカ大統領ウィルソン十四カ条の原則で提案、ヴェルサイユ条約の第1編でその規約が定められ、1920年1月10日に成立した。
本部はスイスのジュネーヴにおかれ、総会・理事会・事務局と、国際労働機関(ILO)・常設国際司法裁判所の2つの外部機構があった。常任理事国は最初、イギリス・フランス・イタリア・日本の4ヶ国。アメリカ、ドイツ、ソ連が参加していないため、イギリスとフランスがリードすることが多かった。原加盟国は戦勝国を中心に42カ国。加盟国は最盛時に59カ国だった。
国際連盟は世界最初の集団安全保障による平和維持を目的とした国際協力機関として重要な存在であったが、当初より次のような問題点があったため、その機能を十分に発揮することができなかった。1945年6月に国際連合が成立(10月発足)したのに伴い、1946年4月に解散した(国際連盟が国際連合に移行したのではないことに注意する)。

資料 国際連盟規約

1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の第1編として国際連盟規約が講和会議総会で調印された。以下はその要点の抜粋。

  • 前文 締約国は戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の規準として国際法の原則を確立し、組織された人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
  • 第8条 連盟加盟国は、平和を維持するためには、国の安全と、国際的な義務遂行のための共同行動実施とに支障がない最低限度まで、その軍備を縮小する必要があることを承認する。
  • 第11条 戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響がおよぶか否かを問わず、すべての連盟全体の利害関係事項であることをここに声明する。連盟は、国際的平和を擁護するために適当かつ有効と認められる措置をとる。そのような事態の発生に際し、事務総長は、いずれかの連盟加盟国の請求に基づき、直ちに連盟理事会の会議を招集する。
  • 第16条 ・・・戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。他のすべての連盟加盟国は、その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶、自国民とその違約国国民との間のいっさいの交通の禁止、・・・をただちに行う。
  • 第22条 先の戦争の結果これまでの支配国の統治を離れた植民地や領土で、近代世界の苛烈な条件のもとでまだ自立しえない人々が居住しているところに対しては、そのような人々の福祉と発達をはかることが文明の神聖なる使命であり、その使命遂行の保証を本規約中に包含するとの原則が適用されなければならない。この原則を実現する最善の方法は、そのような人々に対する後見の任務を、資源や経験あるいは地理的位置によってその責任を引き受けるのにもっとも適し、かつそれを進んで受諾する先進国に委任し、連盟に代わる受任国としてその国に後見の任務を遂行させることである。

(説明)第8条で、国際連盟加盟国は軍縮に努めなければならないことが規定されている。この規定に基づいて国際連盟は1932年からジュネーヴ一般軍縮会議を開催するが、ヒトラードイツは、ドイツだけが軍備を制限されているのはこの規定に反するとして、国際連盟脱退の口実とする。
第11条は新しい国際平和実現のための集団安全保障の規定であり、国際連盟規約の最も重要な部分であった。第16条は戦争を起こした国、つまり違約国に対する経済制裁の規定である。軍事的制裁は規定されていなかった。
第22条は委任統治に関する規定。民族自決という理念は東欧諸民族に適用されただけで、アジアやアフリカ、太平洋地域の人々は「自立できない人々」として「先進国」によって後見されるべきであるという。この制度のもとで植民地は実質的に拡大されていった。<歴史学研究会『世界史史料』10 岩波書店 p.148>

国際連盟の問題点

  1. 有力国の不参加。アメリカ合衆国ロシア(22年よりソ連)ドイツの不参加。:
    アメリカ合衆国の不参加は、議会が孤立主義モンロー主義)の原則に立ち、批准を拒否したためであった(アメリカの外交政策)。
    ドイツ共和国は1925年にロカルノ条約に調印し、ライン非武装と相互不可侵を約束したので1926年に加盟が認められた。
    ソ連邦は、アメリカ合衆国のフランクリン=ローズヴェルト政権による1933年の承認をうけて、1934年に加盟。
  2. 侵略に対する制裁のための軍事力を持たなかったため、紛争の解決が困難であった。
  3. 総会は全会一致で決議する原則であったので、迅速かつ有効な決議を行うことが困難だった。(国際連合の総会は多数決採決となった)

国際連盟の働き

設立当初から国際連盟は、集団安全保障の理念に基づき、国境紛争の解決などにあたり、戦後の国際協調の流れの中で役割を果たした。国際連盟が取り組んだ問題には、ダンツィヒ問題フィウメ問題イズミル問題などであり、特にフランスなどのルール占領問題は最大の問題であった。それらは主としてヨーロッパの問題であったが、1925年のロカルノ条約の締結によって危機を避け、さらに国際協調の最大の実績としてアメリカ合衆国も加えた1928年の「不戦条約」および「国際紛争平和的処理に関する一般議定書」の採択などの平和政策を推進できたことは成果とすることがことが出来る。また軍縮は国際連盟の掲げた第一の課題だったので、アメリカ合衆国が主導したワシントン会議などの海軍軍縮会議とは別に、国際連盟の場で1932年からジュネーヴ軍縮会議も開催された。しかし、世界恐慌後の各国はそれぞれ軍備増強に走り出していたため、成果を収めることはできなかった。

世界恐慌と国際連盟

国際連盟中心の国際協調の機運に冷水を浴びせたのが1929年の世界恐慌であった。アメリカ・イギリス・フランスなどはブロック経済の構築、ドイツ・イタリア・日本は生存権の拡大へと走る中、国際連合も無策であったわけではなく、ドイツ賠償問題の最終的決着を図ろうとジュネーヴで会議を開催したがアメリカの協力が得られず失敗、さらに1933年には国際連盟の主催でロンドン世界経済会議を開催し、アメリカも参加して世界恐慌から国際的な脱却の方向を探ろうとしたが、これもアメリカとイギリス・フランスの利害の対立からまとまらず、ついに武力による解決へと傾斜してしまった。

有力諸国の加盟と脱退

ロカルノ条約の成立により1926年にドイツの加盟が認められ、直ちに常任理事国となった。1920年代後半は国際協調気運が盛り上がったが、1929年の世界恐慌で暗転し、日本は1931年に満州事変を起こし、中国大陸侵略を開始した。国際連盟がリットン調査団の報告を受けて、それを侵略行為と認定したため、1933年に日本は国際連盟を脱退した。同年、軍備平等論を主張するヒトラー政権は軍備制限が不平等であると反発してドイツの国際連盟脱退を実行した。翌1934年には、当初は加盟を拒否されていたがファシズム諸国の台頭が脅威となったため、入れ替わるようにしてソ連の加盟が認められた。イタリアはエチオピア併合を非難されたため1937年に脱退した。ところが、ソ連は1939年12月、フィンランドとの戦争を侵略行為とされて除名された。このように、国際連盟はアメリカ合衆国の不参加に加え、有力な各国が脱退したり、除名されたため、その本来の使命である集団安全保障の理念を全面的に否定されることとなり、その無力化を招き、第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。

常任理事国

国際連盟で総会に次ぐ機関である理事会には、1920年発足時にはイギリス・フランス・イタリア・日本の4カ国が常任理事国となり、それと非常任理事国から構成された。後に加盟したドイツとソ連は、加盟期間中、常任理事国に加わった。なお、非常任理事国は後に9カ国となった。

日本と国際連盟

日本はパリ講和会議において、ヴェルサイユ条約を認め、国際連盟に加盟する条件として「二十一カ条の要求」以来の山東省権益の継承を条件とした。ウィルソンは日本の主張を認めることは、自ら「十四カ条の原則」の民族自決原則に反し、中国の反対を受けることを判っていたが、日本を国際連盟に加盟させることの方を重視して、その要求をのんだ。こうして日本は国際連盟に加盟し、しかも常任理事国という責任ある立場に立つことになった。「・・・(国際)連盟の理事国となったわが国は、そのことに喜ぶあまり、客船を一隻チャーターしてジュネーヴに大代表団を送りこんだのだった。」<明石康『国際連合 軌跡と展望』2006 岩波新書 p.209>という。
1920年から26年、国際連盟事務局次長を務めたのが、『武士道』で有名な、新渡戸稲造だった。国際連盟は戦前期日本の重要な外交活動の舞台であったが、1931年の満州事変を期に孤立を深め、33年に脱退することとなる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です