1861年8月 初期のグラバー商会

1861年5月に 「グラバー商会」 を設立すると、グラバーは中国人の商人や倉庫係など、12人を雇い入れ、日本茶を再製し、輸出を試みました。

再製とは、お茶の輸出にあたり、途中でカビが発生しないように梱包する前に、再び火入れして十分に乾燥することです。


グラバーは長崎で、最初のお茶の再製工場を設立し、1861年8月下旬に再製を開始しました。 グラバー商会で再製されたお茶は上海に送られ、そこでジャーディン・マセソン商会が中国のお茶と混合し、主にイギリスに出荷されていました。

1862年4月以降、ビジネスは本格化してゆくもの、採算については厳しいものがありました。 同年6月には大規模の再製場がほぼ完成し、さらにグラバーは新たな再製場の設立を計画し、それが完成すると300-400釜の規模となるものでした。

さらに、1863年6月には再製場を新たに100釜備え付け、1ケ月の再製量を約60~70トンに増加させようと計画し、同年8月には、グラバーの再製場では日本人の男女合わせて、1000人以上が雇用されていました。

事業を拡大するも、グラバー商会の採算は苦しく、ジャーディン・マセソン商会も生産量の少なさ、着色、再製方法、高い再製費などに不満を示しながらも、グラバー商会に資金を提供し続け、

1863~1865年にはグラバー商会とジャーディン・マセソン商会のお茶の取引は、長崎からのお茶の輸出の20~30%を占め、長崎のお茶貿易で重要な位置を占めるようになっていました。

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