1853年7月8日 黒船襲来

クリックすると元のサイズで表示します
Matthew Calbraith Perry (1794-1858)

ヴァージニア州ノーフォークを出航し、カナリア諸島、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日浦賀港に入港し、フィルモア大統領の親書を携えてきた東インド艦隊司令官のペリーもフリーメーソンでありました。

彼が所属していたロッジは、ニューヨークの 「ホーランドNo.8」 であります。  フリーメーソンにとっては、定期的な儀式は欠かすことが出来ないため、英米の軍艦にはロッジがつくられており、いうまでもなく、黒船にもロッジがありました。

日本に開国を迫ったアメリカの当時の状況は、次のようなものでした。

東海岸の13州をもってイギリスから1783年に独立し、原住民のインディアンと戦いながら、メキシコとの米墨戦争(1846-1848)を勝ち抜き、西海岸のカリフォルニアに至り、

ジョン・L・サリバンが 「併合論」 に書いてあるように、「北米大陸での膨張は自由の拡大という神に与えられた使命である」 と、国土の拡大をアメリカ人は「神の摂理」と理解し、それを明白な宿命(Manifest Destiny)と表現し、熱狂的に西部開拓を行い、その延長上に太平洋の彼方の日本があったのです。

科学技術の発展により、工場は夜遅くまで操業していましたが、まだ石油が発見される前であったので、灯りは鯨油を燃やしてとっていました。  その鯨油を確保するために、捕鯨は盛んで、1846年の統計では736隻出漁し、日本近海でも約300隻が操業していました。

また、当時はイギリスがスエズを陸路で通過し、インド、シンガポール、香港、上海までの航路を開いており、日本まで支配下におかれると、アメリカは太平洋進出の足場を失うと考えていたのです。

ペリー率いる日本遠征艦隊には、サスケハナ号(2450トン)とポーハタン号(2415トン)が含まれていましたが、当時2000トンを超す蒸気軍艦はアメリカだけが保有していたもので、何故喜望峰を回り、インド洋からシンガポール、上海に至るルートを選んだのかと言うと、イギリスに対する軍事的パフォーマンスの目的もあったわけです。

上海を出航した艦隊は、沖縄に立ち寄り、小笠原諸島に向かいましたが、ペリーは本国に 「イギリスの極東における勢力に対抗するには、沖縄にアメリカ海軍基地を建設すべきである」 と書き送っています。

アメリカの沖縄駐留軍の構想は、江戸末期のペリーの時代から既あり、地政学上、今でも沖縄は重要な位置にあります。

江戸幕府に、国書を渡したペリーは再び沖縄に行き、琉球政府に強要し、貯炭所建設を認めさせました。

この頃は、まだ航空機が発明されていなかったので、海軍力がその国の軍事力のバロメーターとなり、前述しましたが自国の海軍力を見せ付けることにより、軍事パフォーマンスを行っていた時代であります。

1860年に咸臨丸が太平洋を横断し、渡米しましたが、この咸臨丸は蒸気船ではなく、スクリュー船でありました。

これはオランダから、世界の潮流は外輪船からスクリュー船に変わっており、船体も木製から鉄製に変わってきている、また海軍には造船所と海軍兵学校が必要と、教えられていた為、オランダに発注したもので、外輪船の黒船に対して、スクリュー式の咸臨丸は、江戸幕府がアメリカに対しての軍事パフォーマンスでもありました。

また、咸臨丸を含む2隻のスクリュー式軍艦をオランダに発注した幕府は、長崎海軍伝習所、石川島造船所、長崎造船所、横須賀造船所を創設し、海軍の基礎を創りました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です