1941年12月7日 日本軍による真珠湾攻撃により米国との戦争が始まる。

1941年12月7日 日本軍による真珠湾攻撃により米国との戦争が始まる。

世論調査では、米国民の97%が欧州戦争参戦に反対していたので、ルーズベルトは大統領選挙で再選される前に「攻撃を加えられていた場合を除いて」外地での戦争に息子たちを送りはしないと繰り返し発言していた。

その2ヶ月後、大統領首席補佐官ハリー・ホプキンスは、英国首相チャーチルに「我々が共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意しています。」と伝えている。

この矛盾を解決するため、敵国から攻撃を受けて、仕方なく「参戦せざるを得ない」状況をつくる必要があった。

ロスチャイルドの世界革命行動計画⑰
〈代理人は大衆受けのするスローガンを生み出せるよう訓練されなければならない。大衆には惜しみなく約束しなければならないからである。約束された事と反対の事は、のちになれば常に行える。〉

日本を追い詰めて米国に宣戦布告させれば、三国協定により自動的にドイツ・イタリアとも戦えるようになる。

11月26日、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益のすべてを放棄することを求めたハル・ノートを突き付けられ、日本は米国との交渉打ち切りを決定。戦争を決意する。

このハル・ノートの作成者は、財務長官ハリー・デクスター・ホワイトだった。国務長官コーデル・ハルも提案書を書いていたが、ソフトな内容だったため、より過酷な内容のホワイト案の方をルーズベルトは採用した。

のちに、ハリー・デクスター・ホワイトはソ連スパイであったことが発覚して逮捕されている。その時に明らかになったことは、ホワイトがソ連からの指示を受けてハル・ノートを作成したということである。(鬼塚英昭『原爆の秘密』成甲書房によれば、ホワイトはロスチャイルドの血族との説もあるようだ。)

当時、共和党議員の90%、民主党議員の50%が戦争に反対していたため、ルーズベルトは議会には内緒で戦争を挑発するような内容のハル・ノートを日本に提示した。

日本は、開戦した場合「まず真珠湾の米艦隊を叩く」という戦略を1941年1月には固めていたが、この情報は駐日大使ジョゼフ・グルーを通して国務長官コーデル・ハルに伝えられていた。

ちなみに、コーデル・ハルはジェイコブ・シフの親戚である。

ハル・ノートを突き付けられる前日、11月25日付の陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンの日記には、「問題はいかに彼らを誘導して、我々があまり大きな損害を蒙ることなく、最初の弾を撃たせるかだ。これは難しい計略だ」と書かれていた。

同じく11月25日、ルーズベルトの秘書ヘンリー・シンプソンが、ルーズベルトの会話記録を残している。
「問題はどうやって我々が日本に先制攻撃をさせるかである。日本に先制攻撃を仕掛けさせ、どちらが侵略者かを明確にさせることが理想だ」

ワシントンの現地時間で12月6日午後3時、日本の宣戦布告分が14部に分割されて、順次ワシントンの日本大使館に送信されたが、それらは同時に傍受・解読されて、午後9時30分にはルーズベルト大統領のもとに届けられていた。

しかし、ワシントンからハワイへは何の情報もないまま、12月7日7時52分に攻撃が始まり、米太平洋艦隊は艦船16隻が大破、航空機188機が破壊され、2273人が死亡、1119人が負傷している。

米国本土では、これを機に反戦ムードが一転。翌8日に米国議会は日本に対する宣戦布告を決議。その3日後にはドイツ・イタリアへも宣戦布告している。

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