1972年9月 「黒い九月」 と 「モサド」 との報復合戦

「黒い九月」 と 「モサド」 との報復合戦

イスラエル政府はPFLPの暗殺チーム「黒い九月」の活動にどう対応するかを決める為の極秘委員会を設置した。 この極秘委員会ではメイア首相とダヤン国防相が共同議長を務めた。 そして、この極秘委員会は歴史的な決定を下した。 それは、ミュンヘンオリンピック襲撃事件(1972年9月5日)を実行した「黒い九月」のメンバー全員を暗殺するというものだった。 徹底報復を決意したメイア首相はこの任務を対外諜報機関「モサド」に命じた。 モサドのザミル長官は作戦部局の上級工作員マイク・ハラリを呼び、暗殺作戦の立案と指揮を命じた。 マイク・ハラリはモサド工作員で暗殺チームを編成し、作戦実行基地をパリに設置した。 マイク・ハラリとパリ駐在一等書記官アブラハム・ゲーメルの2人が作戦実行責任者となった。 彼らは「黒い九月」のメンバーリストを作成し、「黒い九月」のメンバーの足取りを追跡した。 「黒い九月」のメンバーのほとんどは、様々な偽の職業を持って欧州に滞在し、地下のテロ活動を続けていた。 マイク・ハラリは襲撃準備を整え、ザミル長官と連絡を取った。 ザミル長官は極秘委員会に暗殺実行の許可を仰いだ。 極秘委員会は暗殺実行の許可を出した。 最初の暗殺は1972年10月、ローマ在住のパレスチナ知識人ワエル・ズワイテルに対して行なわれた。 モサド暗殺チームは10ヶ月のうちに、ミュンヘンオリンピック襲撃事件に関与した12人のパレスチナ人をパリやローマやニコシアで乗用車やオートバイからサイレンサー付きの銃で射殺したり、電話や無線機で操作するリモコン爆弾で殺したりした。

「黒い九月」側も、幹部たちが殺されるのを見て反撃を試みた。 1972年11月13日には、パリ在住のシリア人ジャーナリストのカデル・カノが射殺された。 彼はイスラエル諜報機関への情報提供者だった。 翌年1月26日には、イスラエル人の実業家ハナン・イシャイがマドリードの目抜き通りで射殺された。 後に、彼の実名はバルク・コーエンで、イスラエルの国内治安局「シンベト」の密命を帯びていたことが明らかにされた。

欧州でマイク・ハラリ率いるモサド暗殺チームが「黒い九月」のメンバーを標的にして暗躍している最中の1973年2月、イスラエル空軍機が堂々とリビア航空機を撃墜し、104人もの民間人を殺害した。 更に、イスラエル政府はモサド暗殺チームをPLO本部のあるベイルートにも派遣した。 標的は「黒い九月」を指揮するアフムド・ユーセフ・ナジャールとケマル・アドワンとPLOの公式スポークスマンのカマル・ナセルだった。 1973年4月10日、モサド暗殺チームは、この3人をベイルート郊外のアパートで射殺した。 次に、モサド暗殺チームは、ノルウェーに滞在中の大物アリ・ハッサン・サラメをターゲットにした。 アリ・ハッサン・サラメは30歳を出たばかりのハンサムな男で、モサドは彼をミュンヘンオリンピック襲撃事件の張本人と見なしていた。 アリ・ハッサン・サラメはPFLPの暗殺チーム「黒い九月」の西欧地域の作戦指揮官で、ミュンヘンオリンピック襲撃事件とバルク・コーエンの暗殺を仕組んだ人物だと見なされていた。 彼が重要なのは「黒い九月」内だけにとどまらなかった。 彼は1948年の第一次中東戦争で戦死したパレスチナ民兵組織の司令官の息子であり、しかも、PLOのアラファト議長の警護に当たるPLO特別部隊「17」の司令官でもあった。 因みに、「17」はベイルートのPLO本部の電話の内線番号から付けられた名前だった。

1973年7月上旬、モサド暗殺チームのほぼ全員がノルウェー北部の小さな町リレハンメルに集められた。 彼らはリレハンメルでアリ・ハッサン・サラメを数時間にわたり尾行し射殺したと思った。 アリ・ハッサン・サラメを射殺したと思ったモサド工作員たちの幾人かはオスロの隠れ家に向かった。 そして、その翌日、彼らは、自分らがひどいミスをしたことに気付いた。 彼らが射殺した男はアリ・ハッサン・サラメではなく、ノルウェー女性を妻に持つアハマド・ブチキというモロッコ人だった。 しかも、妊娠中の妻が射殺の現場を目撃し、他の目撃者が犯人の車のナンバーを警察に通報した。 更に、まずいことに、モサド工作員は第三者を介せずにレンタカーを直接借りていた。 そのため、モサド工作員2人がオスロ空港でレンタカーを返却しようとしたところを逮捕された。 彼らは、モサド暗殺チームが使っていたアパートの所在を自白した。 ノルウェー捜査当局はそのアパートでモサド工作員2人を逮捕した。 ノルウェー捜査当局は、世界で最も優秀と言われるスパイ機関がこれほどの素人仕事をしていたことに驚いた。 モサド工作員は、熟した果実が木から落ちるように、次々とノルウェー捜査当局の手に落ちた。 リーダーのマイク・ハラリは逃げ切ったが、一等書記官アブラハム・ゲーメルと他のモサド工作員5人が逮捕された。 ノルウェー捜査当局の取り調べの結果、ミュンヘンオリンピック襲撃事件以後の数々の暗殺の内容が明るみに出た。 更に、モサド工作員の1人が所持していたパリのアパートの鍵から、フランス諜報機関はモサド工作員の他の幾つかの隠れ家の鍵も見つけ出した。 そして、様々な国でパレスチナ人が殺された未解決事件にイスラエル政府が関与した証拠がぞろぞろ出てきた。 西側諜報機関は、モサド暗殺チームが欧州で活動していたことや、モサド暗殺チームが見張りや補給任務などにパートタイマーを雇っていたことを知った。

ノルウェー捜査当局の取り調べにおいて最も多弁だったのはエルトだった。 彼はモサド工作員ではないが、しばしばモサドから各種の要請を受けていた人物で、テルアビブの北部に住むデンマーク系のビジネスマンであった。 ノルウェー捜査当局が彼を暗い隔離室に入れると、彼はたちまち全面的に自供した。 そして、取調官は、エルトがスパイ任務には致命的に不適格な閉所恐怖症者であることを知って、驚きを隠せなかった。 モサドにとって幸いだったことは、ノルウェー捜査当局がこの厄介な事件を厳しく追及しようとはしなかったことである。 ノルウェー捜査当局はイスラエルに好意的で、2年から5年半の禁固刑を言い渡したが、実際は全員を22ヶ月以内に出獄させた。 フランスやイタリアの治安機関は、モサドに対し強い仲間意識を示し、他の西欧諸国の諜報機関も、アラブのテロと戦うイスラエルに共感を抱いた。

アリ・ハッサン・サラメは、5年半後の1979年1月22日、ベイルートに潜入したモサド工作員の仕掛けたリモコン式爆弾によって、走行中の愛車ごと宙に飛散してしまった。 リモコン式爆弾のスイッチをタイミングよく押したのはモサドの伝説的女性工作員エリカ・チェンバーズだと言われている。 モサド暗殺チームは、超強力なリモコン式爆弾をセットした車を道端に停めておき、アリ・ハッサン・サラメの車がその傍に近づいた時にリモコンスイッチを押した。 それでアリ・ハッサン・サラメの車も火に包まれて、吹き飛び、粉々になった破片と肉片が辺り一面に散らばった。 この爆発で8人が死に16人が負傷した。 アリ・ハッサン・サラメの死はPLOが公式に発表し、イスラエル国内のテレビでも報道された。 アラファト議長が遺児で13歳になる美少年ハッサンの肩を抱き寄せ、葬式に参加している写真が流布した。 「我々はライオンを失った」と、アラファト議長が述べたといわれる。 CIAはアリ・ハッサン・サラメの暗殺に非常に不快感を示したという。 なぜならば、アリ・ハッサン・サラメはアメリカに非常に協力的で、PLOとアメリカ諜報機関との秘密の連絡役を務めていたからだという。

モサド暗殺チームはPLOの最大派閥「ファタハ」のナンバー2であったアブ・ジハドをチュニジアの首都チュニスで1988年4月に殺した。 彼の後釜にPLOの軍事部門責任者のアブ・イヤドが就いた。 アブ・イヤドはミュンヘンオリンピック襲撃事件の首謀者の1人としてモサドから徹底的にマークされていた人物である。 この時点で、アブ・イヤドを除いた「黒い九月」のメンバー全員がモサド暗殺チームによって殺されていた。 1991年1月14日の深夜、チュニス郊外のPLO幹部アブデル・ハミドの自宅を彼のボディーガードの1人が突如襲い、機関銃を乱射した。 これによりハミド宅にいたアブ・イヤドら3人が殺された。 翌日午前、PLOカイロ事務所は「犯行の背後にイスラエルのモサドがいる」との声明を発表したが、実際は、サダム・フセインの意向を汲んだアブ・ニダル(ローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件の張本人)の手下が実行したものと言われている。 アブ・イヤドの死によって「ミュンヘンオリンピック襲撃事件」に対するイスラエルの報復は終了した。

因みに、「黒い九月」の創設者アブ・ダウドは、1981年8月にポーランドのホテルのロビーで狙撃され、重傷を負ったが、大手術をして奇跡的に回復し、現在も生き延びている。 イスラエル政府のある高官は「アブ・ダウドはミュンヘンの罪で殺されるべきだった。 彼が今日も生きているのはイスラエルの失敗であり、防衛機関の恥である」と語っている。

追加情報: 『標的は11人 モサド暗殺チームの記録』

モサドの暗殺チームは、マイク・ハラリ率いる暗殺チーム以外にも、複数のチームがあった。 例えば、アフナーという男が率いる暗殺チームが存在した。 この暗殺チームの活動については、ユダヤ人作家ジョージ・ジョナスが書いた『標的は11人 モサド暗殺チームの記録』(新潮社)というノンフィクション小説の中で詳しく紹介されている。 ただし、この小説に登場する当事者(アフナーら)は全て「仮名」であるので、要注意。

『標的は11人 モサド暗殺チームの記録』は、モサド暗殺チームの隊長を務めた男の告白に基づく壮絶な復讐の記録である。 この本によれば、アフナー率いるモサド暗殺チーム(5人で編成)は、モサドの上官から11人の顔写真付き暗殺リストを受け取ったという。 この暗殺リストのトップに挙げられていたのはアリ・ハッサン・サラメで、2番目は「黒い九月」の創設者アブ・ダウドであったという。 とりあえず、この下に、アフナー率いるモサド暗殺チームの暗殺歴を簡単にまとめておく。

 

1972年10月16日  ワエル・ズワイテル(暗殺リスト4番目の男) ローマのアパート内で射殺。
1972年12月8日   アフムド・ハムシャリ(暗殺リスト3番目の男) パリのアパート内の電話に仕掛けた爆弾で殺害。
1973年1月24日   フセイン・アバド・アッ・シル(暗殺リスト10番目の男)キプロスの首都ニコシアのホテルのベッドに仕掛けた爆弾で殺害。
1973年4月6日   アル・クバイシ博士(暗殺リスト5番目の男) パリの路上(交差点)で射殺。
1973年4月10日   カマル・ナセル(暗殺リスト6番目の男)、ケマル・アドワン(暗殺リスト7番目の男)、アフムド・ユーセフ・ナジャール(暗殺リスト8番目の男) レバノンの首都ベイルートのアパート内で射殺 (ベイルート特攻作戦)。
1973年4月13日   ズアイド・ムシャシ  アテネのホテルの部屋に仕掛けた焼夷弾で殺害。
1973年6月28日   モハメド・ブーディア(暗殺リスト9番目の男) パリで車のシートに仕掛けた爆弾で殺害。
1974年1月12日   3人のアラブ青年  スイス領内の小さな町の教会内で射殺(グラールス事件)。
1974年8月20日   ジャネット(オランダ人の女殺し屋) オランダの港町ホーンのボートハウス内で射殺。
1974年11月8日   アラブ少年  スペインの港町タリファのパレスチナ・ゲリラの別荘の庭で射殺。

 

アフナー率いるモサド暗殺チームは、1975年にモサドの上官から作戦中止命令を受け、解散した。 結局、アフナー率いるモサド暗殺チームは、暗殺リストのトップに挙げられていたアリ・ハッサン・サラメと2番目のアブ・ダウドと11番目のワディ・ハダド博士を殺すことができなかった。 また、作戦実行中にアフナーは3人の仲間を失い、暗殺リストに載っていない人間を6人も殺した。 しかし、アフナーはイスラエルでは英雄になっているという。

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