1948年 ヒトラーなくしてイスラエル建国はなかった

ヒトラーなくしてイスラエル建国はなかった

第1章  ナチス政権とシオニストとの協力関係

19世紀後半にシオニズムが生まれてから1930年代まで、シオニズムに関心を示したユダヤ人は比較的少数であり、ユダヤ人の大半はユダヤ国家建設を現実離れした妄想とみなしていた。 これは数字にも表れている。 1880年から1925年の間に、アメリカへ移住した東欧ハザール系ユダヤ人が400万人であるのに対し、パレスチナへ移住した東欧ハザール系ユダヤ人はたった15万人である。 当時、西欧に永く住んできたユダヤ人の大半はユダヤ国家建設よりも自分たちが住むキリスト教社会に同化することのほうが大事だと思っていた。 つまり、西欧に永く住んできたユダヤ人の大半は同化主義ユダヤ人であった。 彼らは西欧各国でそれなりの経済的地位を持ち、裕福であった。 特にヒトラーが政権を握る直前のドイツにおいては、同化主義ユダヤ人は経済や学術において巨大な勢力を誇っていた。 一方、ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人は、自分たちの計画を絶対に成功させようと躍起になって、イデオロギー(政治社会思想)の点で同化主義ユダヤ人と対立していた。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人にとって、西欧に永く住んできたユダヤ人の大多数が同化主義者であるということがイデオロギー上の最大の障壁であった。

ドイツの著名な歴史研究家であるユダヤ人セバスチャン・ハフナーは1978年に『ヒトラー注釈』という本を出した。 彼はこの本の中で、1930年代のドイツ・ユダヤ人社会の様子について、次のように述べている。 「ユダヤ人社会はまさしくヒトラーの時代に3000年の歴史でかつてなかったほど様々に分裂した。 即ち、『伝統的な宗教性』と『近代的な世俗主義』とに、『同化主義』と『シオニズム』とに、『民族主義』と『国際主義』とに、分裂した。 そして、世界中のあらゆる大きな党派的対立と分裂が、ユダヤ人の市民としての解放以降、それまでは統合されていたユダヤ人社会を分裂させる原因となったことはいうまでもない。 ユダヤ人社会は、この一世紀もしくは半世紀のあいだ、同化と改宗と婚姻により、かなりの程度までユダヤ人としての性格を意識的に放棄し、西欧各国に完全に溶け込もうとしているところだった。 そして、ほかならぬ、ここドイツにおいてほど、それが確信をもって情熱をもって行なわれていたところはほかのどこにもなかった」。

金沢大学教授で中東現代史専攻の前田慶穂氏は『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人1』という本の中で 「ナチスが政権を獲得した直後の1933年、『世界シオニスト機構』の議長代理だったユダヤ人ヨアヒム・プリンツは次のように書いていた。 『強力なナチス勢力がわれわれを支援してくれ、われわれを改善してくれた。 同化論は敗れた』と」 と述べている 。 ナチスがユダヤ人組織を支援してくれたとは意外だが、これにはそれなりの理由がある。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人にとって、同化主義のユダヤ人はイデオロギー上の最大の敵であった。 だから、ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人は、ユダヤ人全体の排斥を政策とするナチスを 「敵の敵は味方」 という論理で 「味方」 に位置づけたのである。 ユダヤ国家建設を目指すユダヤ人とナチスとは互いをうまく利用したと言える。 両者は互いに手を組んだのである。

ナチスとハザール系ユダヤ人シオニストが互いに手を組んでいたという事実はハザール系ユダヤ人シオニストが触れられたくない事である。 例えば、次のような事柄はあまり公にされていない。
ナチス政権の誕生当時、ドイツ・シオニスト連盟は、若い世代のユダヤ人がパレスチナへ出国できるようにナチス政権に支援してもらいたいと思っていた。 ドイツ・シオニスト連盟の幹部クルト・トゥーフラーは、ナチス親衛隊保安諜報部のユダヤ人問題担当課長フォン・ミルデンシュタインに接触し、ナチスの機関紙に親シオニズム的な論文を載せるよう説得した。 クルト・トゥーフラーとフォン・ミルデンシュタインはナチス政権誕生から2ヶ月後(1933年3月)にそれぞれ夫人を同伴してパレスチナへ向かった。 フォン・ミルデンシュタインは6ヶ月間パレスチナに滞在した。 フォン・ミルデンシュタインがパレスチナ滞在を終えてドイツに帰ったとき、彼は熱烈なシオニズム・シンパになっていた。 彼はヘブライ語を学び始め、ヘブライ語のレコードを収集しはじめた。 彼は約束を守る男であった。 彼はパレスチナの入植地で見聞したことの全てを好意的に論述し、ゲッベルスを説得してナチスの機関紙『アングリフ』に堂々12回にわたる報告シリーズを掲載した。 親シオニズムになったフォン・ミルデンシュタインはアドルフ・アイヒマンの上司であった。 フォン・ミルデンシュタインはアドルフ・アイヒマンにテオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』を与えた。 この本はアドルフ・アイヒマンの愛読書になった。

今や世界中からユダヤ人虐殺の頭目のように見なされているアドルフ・アイヒマン。 彼は1935年、ナチス親衛隊保安諜報部のユダヤ人問題担当官に就任したばかりの頃、上司フォン・ミルデンシュタインの勧めでテオドール・ヘルツルの著書『ユダヤ人国家』を読み、シオニズムに共鳴した。 また、アドルフ・ベームの著書『シオニズム運動』もアイヒマンの愛読書となった。 彼はウィーンにおいてのユダヤ人指導者との会見の席で、アドルフ・ベームの著書のまる1ページ分を暗唱して見せたほどであったという。 そして、アイヒマンはヘブライ語を勉強するようになった。

ヒトラーはユダヤ人問題解決のため、アメリカやイギリスと極秘のうちに話し合いを進めていた。 その時、連絡係を務めたのがアイヒマンだった。 彼は役目上、ユダヤ組織のトップたちと何度も話し合っていた。 1937年2月、アイヒマンはシオニスト組織「ハガナ」の司令官ベングリオンとベルリンで会談した。 この時、2人は合意に達し、アイヒマンは書面で「ドイツのユダヤ人を代表する組織は、ドイツを去るユダヤ人がパレスチナだけに移住するように圧力をかけるものとする」と取り決めた。 また同年、アイヒマンはパレスチナに招待された。 彼は帰国報告で「ユダヤ人シオニストはドイツのユダヤ政策を非常に喜んでいる。 その理由は、それがパレスチナのユダヤ人口を数倍に増大させたからである」と述べた。 ナチスとシオニストの協力関係はアイヒマンの努力によって緊密になったのである。

戦後、アイヒマンはアルゼンチンで逃亡生活を送っていた。 しかし、彼はイスラエルの対外諜報機関「モサド」の工作員によって1960年5月11日に逮捕・拉致され、イスラエルへ空輸された。 アイヒマンの裁判は1961年4月11日にエルサレム地裁で始まった。 アイヒマンは裁判中、次のように反論した。 「自分はナチスという巨大な組織の中の一員にすぎず、すべて上司の命令を忠実に守っただけである。 我々ナチスが欧州からあなたたちユダヤ人を追い出さなかったら、あなたたちの国イスラエルはここには作られなかった」。 また、アイヒマンは南米での逃亡生活中、パレスチナでの滞在経験の一部始終をテープに録音し、この短期間の滞在を次のように回顧していた。 「私は実際、ユダヤ人入植者が自らの国を作り上げている様子に極めて強く印象づけられた。 私は理想主義者だったから、ユダヤ人の生きようとする捨て身の意志を賛美した。 それに続く数年間、私は交渉相手のユダヤ人によく語ったものだ。 もし、私がユダヤ人だったら、狂信的なシオニストになっていただろうと。 別のことを想像することは不可能だ。 実際、私は考えられる限り最も熱心なシオニストになっていただろう」。

ユダヤ人の擁護者として著名なユダヤ人ハンナ・アレントは著書『エルサレムのアイヒマン』の中で、ナチス当局者とシオニズムの指導者たちの間に協力関係があったことに触れ、同胞(非富裕層のユダヤ人)の強制移送に協力したユダヤ人自治組織 「ユダヤ人評議会」 があったこと、同胞をナチス政権に売ることで生きながらえたユダヤ人がいたことを指摘した。 彼女によれば、シオニズムの指導者は、シオニズムに反対するユダヤ人やシオニズムに無関心なユダヤ人を追放しようとするナチス政権に協力し、「誇りをもって黄色いバッジをつけよう」 というスローガンの採用をナチス政権に迫ったという。 (この本の出版後、彼女はシオニストから袋叩きに遭った)。

ナチス政権が反ユダヤ政策を推し進めていた頃、ナチス政権に対抗するためにドイツ製品の不買運動を計画していたユダヤ人グループや反ファシズム団体があった。 しかし、シオニストの多くがドイツ製品の不買運動に反対した為、その不買運動は成功しなかった。 その不買運動に反対した勢力の中で最も重要な役割を果たしたのは「世界シオニスト機構」であった。 1933年8月、世界シオニスト機構とナチス政権とは互いに手を組み、「ハーヴァラ協定」(シオニスト・ナチス通商協定)を締結した。 この協定はドイツ在住ユダヤ人のパレスチナへの移住と彼らの資産のパレスチナへの移送に関する協定である。 この協定によって、ナチス政権はドイツ製品の不買運動を潰すことが出来た。 この協定により、ドイツ在住ユダヤ人のパレスチナへの移住が始まったが、この移住に際しては高額のお金が必要とされた為、富裕層のユダヤ人だけがパレスチナへ移住でき、非富裕層のユダヤ人はパレスチナへ移住できず、ドイツ国内に居残った。 ハーヴァラ協定は1939年9月の第二次世界大戦勃発まで維持された。 ナチス政権によるユダヤ人迫害が強まる中でも、ドイツ在住ユダヤ人の大部分はドイツを離れて縁もゆかりもないパレスチナの荒れ地へ行きたいとは思っていなかったが、ハーヴァラ協定により1億4000万マルクのユダヤ人資産がドイツからパレスチナに移送され、裕福なドイツ在住ユダヤ人5万2000人がハーヴァラ協定を使ってパレスチナへ移住し、パレスチナの土地を買い漁った。 パレスチナを委任統治していたイギリス政府は裕福なユダヤ人のパレスチナへの移住に好意的であった。

東京大学名誉教授で中東現代史専攻の板垣雄三教授は次のように述べている。 「ユダヤ人シオニストにより設立された『パレスチナ船舶会社』はドイツ客船を購入して『テルアヴィブ号』と名付け、船長にはナチ党員をつけ、船尾にはヘブライ文字の船名をつけ、マストにはナチスの逆鉤十字を掲げて、1935年にブレーマーハーフェン・ハイファ間に就航させ、ユダヤ移民の輸送にあたらせた。  〈中略〉  1919年、パレスチナのユダヤ人口は住民の9%だったが、1939年には、パレスチナのユダヤ人口は住民の30%を占め、パレスチナ・ユダヤ人社会の自立経済が成立するに至った。 1933年を転換点として、ドイツ・東欧からの富裕層ユダヤ人移住者が激増したからである。 ナチズムなしにはイスラエル国の誕生はありえなかったと言えるであろう」。 このように、ドイツ在住の富裕層ユダヤ人をパレスチナへ移住させるという点で、シオニストはナチス政権をうまく利用したと言える。

ハーヴァラ協定によって世界シオニスト機構のドイツ支部はユダヤ人組織としては唯一機関紙の発行を許され、ナチス政権との交渉権を持ち、急速に成長した。 ハーヴァラ協定の締結(1933年8月)以降、世界シオニスト機構とナチス政権との交易関係は他の領域でも発展し続けた。 世界シオニスト機構はドイツ製品を積極的に購入しただけでなく、それを販売し、ヒトラーとドイツ産業界のために新しい顧客まで作りだしてやった。 世界シオニスト機構は1936年にはイギリスでドイツ製品を売り始めた。 1937年には逆鉤十字の旗の下、20万個のパレスチナ産オレンジがドイツに運ばれ、更に150万個のパレスチナ産オレンジがベルギーやオランダに送られた。 エジプト、レバノン、シリア、イラクにおいてはドイツのために新規顧客が獲得された。 ベルギー・オランダ向けのオレンジ輸出は、最後にはナチスの船を使用するまでになった。

当時、ハーヴァラ協定に反対するユダヤ人は大勢いた。 ナチス政権と手を組んだ世界シオニスト機構に対して 「紛れもない対ナチ協力」 という非難の声が殺到した。 1939年にイギリス・ユダヤ人議員委員会総裁となったセリグ・プロデツキーは 「世界シオニスト機構がナチス政権とハーヴァラ協定を締結した所為で世界中の人々がシオニストを蔑んだ」 と述べた。 ユダヤ教指導者のワイズもハーヴァラ協定について不満を述べ、ナチス政権と通商協定を結んだシオニストに対して嫌悪感を表明した。

ナチスの幹部ラインハルト・ハイドリヒは、ナチス親衛隊保安部・部長時代の1935年、ナチス親衛隊の機関紙『黒服将校団』に寄せた 「見えざる敵」 と題する論文で次のように述べた。 「シオニストは率直に民族主義の信念を表明し、パレスチナへの移住によるユダヤ国家建設計画を推進している。 我々の正しい願望と優れた公式命令には、彼らと共通するものがある」。 ハイドリヒはヒムラーに次ぐナチス親衛隊ナンバー2であり、1939年に国家保安本部長官に就任した。

ナチス・ドイツにおけるシオニスト組織の特権的地位については、ババリアのゲシュタポが1935年1月28日に警察に対して出した次のような回状がある。 「シオニスト組織のメンバーはパレスチナへの移住活動を行なっているので、彼らに対しドイツ国内の同化主義ユダヤ人に対するのと同様な厳密さで対処してはならない」。 (『1930年代のナチ法の下におけるシオニストと非シオニスト』)

ナチスの理論的指導者として活躍したアルフレート・ローゼンベルクは、1937年に発表した論文『転換期におけるユダヤ人の足跡』の中で次のように述べた。 「シオニズムを積極的に支援すべきである。 相当数のドイツ在住ユダヤ人を毎年パレスチナに向けて送り出すべきだ」。 そして、この言葉通り、ナチスの 「ユダヤ人強制移送計画」 の最初の移送先は、ユダヤ人の入植が相当進んでいたパレスチナに定められた。 しかし、パレスチナの委任統治権を握っていたイギリスとの間で費用などの問題で話がつかなかった為、フランス領だったマダガスカル島が移送先の候補に挙がったり、占領下のロシアに移送しようという話になったりしたが、その間にも、さまざまなルートを使ってユダヤ難民のパレスチナへの強制移送は行なわれていた。 シュテーグリッヒの著書『アウシュヴィッツ 判事の証拠調べ』には次のような事が紹介されている。 「1944年という遅い時期に至ってさえ、ドイツ海軍の援護の下に数隻の船がルーマニアから黒海をぬけて、ユダヤ人移住者を運んでいた」。

第2章  ナチスの協力によるハンガリー・ユダヤ人1685人のスイスへの不法脱出

1944年、ナチス・ドイツの敗色が濃厚になる中で、ナチス親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーなどのナチス指導者は、ハンガリーに残るユダヤ人を殺すよりも、西側との交渉のためのカードとして彼らを温存したほうが得策かもしれないと考えていた。 ハンガリーの首都ブダペストでは、アドルフ・アイヒマンとハンガリー・シオニスト組織のリーダーであるルドルフ・カストナーの2人がハインリッヒ・ヒムラーと連絡をとりつつ、様々な可能性を模索し、秘密の合意に達した。 それは、ルドルフ・カストナーが選び出したユダヤ人1685人を列車で秘密裏にスイスへ脱出させるというものだった。 ルドルフ・カストナー自身も加わって作成された乗客リストには、彼の家族・友人・シオニズム長老指導者の名前が並んでいた。 この計画を実行するに際して、ルドルフ・カストナーはナチス親衛隊中佐クルト・ベッヒャーを相棒にした。 1944年6月30日、ルドルフ・カストナーによって選ばれたユダヤ人たちは、特別列車に乗ってハンガリーを脱出しスイスに無事に到着した。 ハンガリーに残された数十万人のユダヤ人は強制収容所に送られた。 クルト・ベッヒャーとルドルフ・カストナーは、その後も親密な関係を続けた。 ドイツが降伏した後、クルト・ベッヒャーが戦犯として逮捕されると、ルドルフ・カストナーはニュルンベルク裁判で、このナチスの友人の弁護に駆けつけ、彼が人格者であることを訴えた。 その結果として、クルト・ベッヒャーは釈放され、その後、西ドイツで実業家として名を馳せた。 ルドルフ・カストナーはイスラエル国政府の高官となったが、1957年、自宅を出たところを射殺された。

第3章  同胞ユダヤ人を“生けにえ”にして作られたイスラエル共和国

ナチス政権により殺害されたユダヤ人の大部分はハザール系正統派ユダヤ教徒だった。 ナチス政権がユダヤ人を追放しようとし、どの国もユダヤ人を引き取ろうとしなかった時、あろうことか、ハザール系ユダヤ人シオニストはドイツ国内およびドイツ占領地域内のハザール系正統派ユダヤ教徒が安全に移動することを妨げるように各国政府に働きかけていた。 ハザール系正統派ユダヤ教徒は貧しく、そして、シオニズムに反対していたので、ハザール系ユダヤ人シオニストにとってハザール系正統派ユダヤ教徒は厄介な存在だった。 ハザール系ユダヤ人シオニストはハザール系正統派ユダヤ教徒を助けるどころか、邪険にしたのである。 ハザール系ユダヤ人シオニストはドイツ国内およびドイツ占領地域内のハザール系正統派ユダヤ教徒をその地域内に留め置き、ナチス政権に彼らを殺害してもらいたかったのである。 ナチス政権はドイツ国内およびドイツ占領地域内に居残り続けるハザール系正統派ユダヤ教徒の処置に困り、ドイツ占領下のポーランドに11ヶ所、ウクライナに1ヶ所、ベラルーシに1ヶ所の強制収容所を作り、彼らハザール系正統派ユダヤ教徒をそこへ強制移送し、終にはホロコーストが始まった。

裕福なユダヤ人はハーヴァラ協定を使ってドイツからまんまと逃れ、裕福でないユダヤ人(ハザール系正統派ユダヤ教徒と裕福でない同化ユダヤ人)はドイツ国内に居残った。 そして、ドイツ国内に居残った裕福でないユダヤ人はハザール系ユダヤ人シオニストによって見捨てられ、ホロコーストの犠牲者になった。 ハザール系ユダヤ人シオニストはパレスチナでのユダヤ国家建設を全てに優先させた。 そして、ユダヤ人大量虐殺が世界中に知られたとき、世界中の多くの人々がユダヤ人に同情し、ハザール系ユダヤ人シオニストによるユダヤ国家建設が正当化された。 自分たちの目的達成のためには多くの同胞の殺害されることさえをも望む。 それがハザール系ユダヤ人シオニストの本性だった。

ナチス・ドイツが敗北した後に、ユダヤ国家建設の地として再びマダガスカル島を候補にあげたイギリスの植民地担当大臣モイン卿はハザール系ユダヤ人シオニストによって暗殺された。 ハザール系ユダヤ人シオニストの目的は、あくまでパレスチナでの国家建設であり、結果として、彼らは、1878年以来、ロスチャイルド家が土地買収を続けてきたパレスチナにユダヤ国家を建設することに成功した。

パリ・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルド
エドモンド・ロスチャイルドは19世紀末からパレスチナへ入植するユダヤ人たちに 「匿名の寄贈者」 というサインの付いた 「小切手」 を送り続け、彼らを全面的に援助していた。 

本来ならナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺は、“大災厄”または“全面的破滅”を意味するヘブライ語の 「ショア」 と言うのが適切であるが、アメリカでは西暦1978年頃から 「ホロコースト」 と言われるようになり、この言葉は博物館の名にも使われている。 「ホロコースト」 の語源は古代イスラエルの民が行なった「燔祭(家畜を祭壇上で焼き、神に捧げる儀式)」である。 この儀式では国の発展を祈願して様々な家畜が神に捧げられ、祭壇上で焼かれた。 今でも 「ホロコースト」 という言葉は“神に捧げる生き物”という意味を持つ。 現在、多くの人が、ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺を 「ホロコースト」 と呼んでいるが、これは皮肉にもナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺の本質を表現していると言える。 まさに多くの裕福でないユダヤ人が“神に捧げる生き物”となり、イスラエル建国が果たされた。

第4章  ヒトラーなくしてイスラエル建国はなかった

エドガー・ケイシー(1877年~1945年)というアメリカ人がいた。 彼は催眠透視という特殊能力を持つ人物で、彼の行なった膨大なリーディング(催眠状態における情報の引き出し)の記録は、現在でもバージニア州にあるエドガー・ケイシー財団に保管され、一般公開されている。 彼は政府高官に招かれて、ホワイトハウスでリーディングをしたこともある。

第二次世界大戦の真の目的を知りたいと思った或るユダヤ人がエドガー・ケイシーにリーディングを依頼した。 このユダヤ人の依頼によるリーディングが行なわれたのは1939年9月25日で、第二次世界大戦が始まってから22日しか経っていなかった。 「今回の戦争の本当の目的は何ですか」という質問に対して、エドガー・ケイシーは次のように答えた。 「ダニエル書の最後の2章を読みなさい。 また、申命記第31章を見なさい。 そこに答えを見い出すだろう」。 エドガー・ケイシーが依頼人のユダヤ人に読むように勧めた旧約聖書の申命記第31章では、ユダヤ人がヨルダン川を越えてカナン(現在のパレスチナ)に入る直前にモーセが説教する様子が述べられている。 エドガー・ケイシーは他のリーディングでも 「ヒトラーがドイツの権力の座に就いたのは、ユダヤ人が彼らの祖国パレスチナに帰れるようにする為である」 と繰り返し述べた。 結果的に、ヒトラーのユダヤ人迫害はシオニズムを最大限に推し進めることになった。 ヒトラーはイスラエル建国の第1の功労者である。 ハザール系ユダヤ人シオニストはヒトラーに感謝すべきである。

前出の、ドイツの著名な歴史研究家であるユダヤ人セバスチャン・ハフナーは、著書『ヒトラー注釈』の中で、次のように述べている。 「ヒトラーが最大の罪を犯した諸民族に対して決して最大の損害を与えたわけでないことは興味深い事実だが、奇妙なことにあまり顧みられていない。  〈中略〉  2000年になんなんとする歳月を経て、ヒトラーの登場後、ユダヤ人は再び国家を、誇り高く栄誉に輝く国家を持っている。 ヒトラーがいなかったら、イスラエル建国はなかっただろう。  〈中略〉  客観的にみて、ヒトラーにより最大の損害を受けたのはドイツである。 ドイツ人はヒトラーに多大な人命を捧げた。 それは700万人強で、ユダヤ人やポーランド人より多く、ドイツ人より多くの血を流したのはロシア人だけである。 他の戦争参加国の損失はこの4つの国の損失とは全く比べものにならない。 ソ連とポーランドが恐るべき血の犠牲ののちに前より強力になり、イスラエルがユダヤ人の犠牲によって生まれた一方、ドイツ帝国は地図の上から消えてしまった」。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の政治的・経済的な原因については、学者が膨大な論文を書き残している。 しかし、シオニズムという観点から両大戦を論じたものは殆ど無い。 両大戦をシオニズムだけで説明することは不可能だろうが、シオニズムが大きな要素として作用していたことは事実である。 もし、将来、第三次世界大戦が起きるとすれば、再びイスラエルの利権が大きく絡んだものになるだろう。 従って、第三次世界大戦という惨劇を未然に防止するという意味を込めて、シオニズムという観点から両大戦を論じることは大事だと思われる。

追加情報1: 『ファシズム時代のシオニズム』

ナチスとシオニストとの協力関係についてもっと詳しく知りたい人は、専門書『ファシズム時代のシオニズム』(法政大学出版局、4800円)を読まれるとよいだろう。 著者は反シオニズムのユダヤ人歴史学者レニ・ブレンナーである。 京都大学大学院の高橋義人教授が書評を書いている。 参考までに、下に転載しておく。
<書評>
周知のようにナチスはユダヤ人を迫害し虐殺した。 では当時、ドイツのユダヤ人たちは反ナチス運動を行なったのだろうか。 否である。 たしかにナチスに反対して戦ったグループもいるにはいた。 しかし、イスラエル建国を目指すユダヤ人は、むしろ積極的にナチスに協力したのだった。 本書(著者はユダヤ人)は、ドイツやイタリアのファシズム下におけるシオニズムの実態を暴露した驚くべき本だ。 当時の西欧には、西欧に同化しようとするユダヤ人と、そうしないユダヤ人とがいた。 同化しようとしないユダヤ人や、同化しようとしても同化しきれないユダヤ人は西欧諸国で嫌われていた。 「西欧にとどまっている限り、自分たちはいつまでも異邦人である」と思った人たちはシオニズムを起こすにいたった。 その後まもなく誕生したナチズムは、公然とユダヤ人を非難した。 そのときシオニストたちは、ナチズムは同化主義の失敗を証明するものだと考えた。 「ヒトラーも言い当てたように、われわれユダヤ人は西欧の中の厄介な異分子である。 自分たちはもはや西欧には生きられない。 実際、ナチスは我々ユダヤ人を国外に追い出そうとしているではないか。 ならば、我々が行くべきところはパレスチナ以外にはない」と考えたシオニストはヒトラーにシオニズムの支援を依頼した。 むろんヒトラーはその依頼に応え、彼らを巧みに利用した。 一時期、ナチズムとシオニストたちは相当に親密な関係にあったのである。 イデオロギーの面でもナチズムとシオニズムは似ていた。 自由主義の軽蔑、民族主義、人種差別主義。 これらが両者の接点だった。 そして、もしもこんなイデオロギーがイスラエルをいまだに支えているとしたら、今日の中東問題の根は絶望的なまでに深い。 多くの日本人は「ユダヤ人問題」に無関心だが、それだけに一読してもらいたい本である。

追加情報2: 『20世紀ドイツの光と影 歴史から見た経済と社会』(芦書房)から

芦書房から出版された『20世紀ドイツの光と影 歴史から見た経済と社会』という本は、内容が充実していて、ドイツ近現代史を研究する上で大変参考になる本である。 この本の「第14章:ナチスの反ユダヤ政策に対するユダヤ人の反応 同化か移民か」で、「ハーヴァラ協定」や「同化主義ユダヤ人」が詳しく紹介されているので、参考までに抜粋しておきたい。
「新政権誕生直後の1933年3月5日に行なわれた国会選挙でナチスが勝利すると、勝利に沸く突撃隊(SA)をはじめナチ党下層メンバーは党の許可なしに自発的に路上に繰り出し、ユダヤ人に暴行を加えた。 当時15万人以上のユダヤ人(ドイツのユダヤ人の3分の1以上)が住んでいたベルリンでは、こうした無秩序に不安と恐怖を感じたユダヤ人がシオニスト運営の移民相談局『パレスチナ事務所』に駆け込み、事務所は連日満員になった。 パレスチナにユダヤ国家を建設しようとするシオニズムは、ドイツでは1897年結成の『ドイツ・シオニスト連盟』によって進められてきたが、ドイツで生まれ育ち、ドイツ文化を受容したドイツ・ユダヤ人の大部分にとって、パレスチナ移住を掲げるシオニズムは自分たちとは無縁のものとみられてきた。 しかし、1933年3月5日の国会選挙後、それまでシオニズムに興味を持たなかったユダヤ人の多くが突然シオニストとなった。 彼らを『3月シオニスト』という。 この『3月シオニスト』の増加で、『ドイツ・シオニスト連盟』のメンバーは一気に1万人以上増加し、3万人を超えるまでになった。 これに対し、ドイツ最大のユダヤ組織でワイマール期には7万5000人のメンバーを持っていた同化主義団体『ユダヤ教徒ドイツ国民中央協会』(1893年結成)は動揺を示していた。 従来の同化政策の是非をめぐって一部の幹部から見直しを求める声も聞かれ、指導部内で意見の不一致がみられ、その結果、3月5日の選挙直後に『ユダヤ教徒ドイツ国民中央協会』がナチス政権に出した公式の声明文では、ナチスに対する『不信』を伝えながらも、『われわれは首相(ヒトラー)の公正さと憲法への忠誠を信頼する』という不明瞭な態度を示していた。  〈中略〉  シオニストもまた違った意味でドイツ製品ボイコットの声を無効なものにした。 それが1933年5月から8月にかけてシオニストとナチスとの間で結ばれた『ハーヴァラ協定』であった。 ヘブライ語で『移送』を意味するこの協定は、パレスチナヘのユダヤ人資産の移送とユダヤ人の移住を容易にする協定であり、次のようなシステムで機能した。 まず、パレスチナヘの移住希望者はベルリンの『パレスチナ信託機関』にマルクで資産を預け、その預かった資産で『パレスチナ信託機関』はドイツ製品を購入し、それをテルアヴィブにある『ハーヴァラ事務局』へ輸出する。 『ハーヴァラ事務局』は、受け取ったドイツ製品をパレスチナやその他の地域で販売し、その利益をパレスチナ・ポンドで保管する。 そのお金を、『パレスチナ信託機関』に資産を預けた移民希望者がパレスチナに移住したときに受け取るのである。 このようなシステムで機能する『ハーヴァラ協定』は、ブリューニング期の1931年以降、資本の国外流出を防ぐために国外移住者に課されていた『外国為替取引の禁止措置』──移民希望者はすべての財産を『移民封鎖預金口座』に預け、この口座に預けたマルクを移民先の外貨に交換する際には、公式相場の半分のレートでしか交換できないという措置──を実質的に取り払い、移民希望者に有利に国外移住をさせる協定であった。 この協定はナチスとシオニストの双方にとってメリットがあった。 この協定により1933年8月から1939年の戦争勃発までに1億4000万マルクのユダヤ人資産がドイツからパレスチナに移送され、5万2000人のユダヤ人がドイツからパレスチナに移住した。 一方、ナチスはドイツ製品の輸出販売量を伸ばしながら、ユダヤ人をドイツから追放するという利益を得たのである。 この協定によってユダヤ人自身がドイツ製品を売りさばく中、ドイツ国外でのドイツ製品ボイコットの声は意味をなさなくなった。 この両者の提携は世界を驚かせ、シオニストの間でも論争を呼んだ。  〈中略〉  『ハーヴァラ協定』を用いたパレスチナ移住には、パレスチナを委任統治するイギリスによる移民制限や、移民希望者の資産状況の厳しい審査が伴っていた。 この審査では、パレスチナ開拓事業に資金を投下できる資産家が優先された。 西欧キリスト教社会に同化したドイツ・ユダヤ人の中には、パレスチナへの移住に抵抗を示した人々も少なくなかった。 ベルリンのユダヤ人女医H・ナートルフは1934年に親戚から『パレスチナに移住しないか』と尋ねられたとき、『パレスチナ? 私はアメリカに行きたいわ』と答えた。 移住の決断には個々人の経済・職業状況や、現状の移民制度の経済的損失の多さ、同化のメンタリティーなどの要素が重層的に絡み合っていたのである」。
以上、『20世紀ドイツの光と影 歴史から見た経済と社会』(芦書房)から

追加情報3: 現代のシオニストにとっても同化主義は大きな障壁である

テオドール・ヘルツルの提唱で「第1回シオニスト会議」がスイスのバーゼルで開かれたのが今から100年前の1897年だった。 イスラエル国は100周年を記念して、1997年を「シオニズムの年」と名付け、学術会議など各種イベントを行なうなど、民族意識の高揚を図った。 エルサレム市内の大統領官邸で開かれた「シオニズムの年」の開会式典ではワイツマン大統領はじめイスラエル政府関係者が今後とも更に多くのユダヤ人をイスラエルに移住させる必要があることを力説した。 同式典の挨拶でネタニヤフ首相は、全世界に散らばっているユダヤ人が現地に同化する傾向を見せ、ユダヤ人としての性格を失いつつある事への危機感を以下のような言葉で表明した。 「ユダヤ人の数は今日までに2400万人になるはずだった。 ところが、同化のため約1200万人を失っている。 この数字はヒトラーによって失われた数字の2倍にあたる。 シオニズムの最初の50年間は反ユダヤ主義が主要な脅威だった。 しかし、それ以降、シオニズムは同化の問題と闘うことを余儀なくされている」。

『エルサレム・リポート』誌(9月19日号)の編集長コラムでも、この「同化問題」が取り上げられ、以下のようなデータが掲載されていた。
【1】 現在のアメリカでは濃淡の差はあれ、ユダヤ人としての性格を維持している世帯は44万しかなく、非ユダヤ人とユダヤ人のカップルはその約3倍の130万いるという。 また4歳以下の子供の数を比較しても、ユダヤ人のカップルのそれより、非ユダヤ人とユダヤ人のカップルのそれの方が上回っている。
【2】 イギリスでも、シナゴーグで結婚式を挙げるユダヤ人はユダヤ人全体の30%程であるという。 また、過去30年間で当初40万5000人いたユダヤ人コミュニティーが30万人にまで減ったとも報告されている。
【3】 スイスでもユダヤ人が非ユダヤ人と結婚する割合が60%から70%にも達しているという報告がある。
【4】 ノルウェーでも地元専門家の予測では、現在700のユダヤ人コミュニティーが今後数年以内に消え去ると指摘している、など世界各地での同化現象が顕著になっている。

また、「世界ユダヤ人会議」が1996年1月に発表した統計によると、世界のユダヤ人の総人口は1350万人で、うちアメリカに580万人、イスラエルに460万人が居住しているという。 そして、在米ユダヤ人のうち、ユダヤ教の学校に通っている児童は全体の15%にすぎず、イスラエル在住ユダヤ人の35%はシナゴーグに一度も行ったことがないという。 そして、特にアメリカのユダヤ人はユダヤ人同士の結婚が減り、21世紀の半ばにはユダヤ人は1万人くらいになるだろうという大胆な予測まで出ている。

ユダヤ人の同化に関し、ある新聞記者は次のように批評している。 「かつては外からの迫害があることで、ユダヤ人は世界各地で連帯を保つことができた。 しかし、それがなくなりつつある今、同化の問題がユダヤ民族意識を脅かしているのは歴史の皮肉である」。

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