1078年 近代資本主義経済を作り上げた西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人

近代資本主義経済を作り上げた西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人

ヨーロッパではキリスト教社会が成立して以来、ユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着し、ユダヤ人の職業は制限されてきた。 1078年、ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し 「公職追放令」 を発令した。 そのため、ユダヤ人が全ての職業組合から締め出された。 当時のキリスト教は、他人にお金を貸して利子を取ることを罪悪と見なし、キリスト教徒には金貸し業を禁止していた。 一方、ユダヤ教は『タルムード』の中で異国人から利子を取ることを許していたこともあって、ユダヤ人は古くから自由に金貸し業を営んできた。 そのため公職追放令が発令された後、益々多くのユダヤ人が金貸し業に手を染めていった。 そして、同時期の十字軍遠征活動(1095年~1272年)においては、ローマ教会が異教徒征伐を正当化したことにより、イスラム教徒だけでなく、多くのユダヤ教徒が殺害された。 15世紀後半にはイベリア半島のアラゴン王国で、キリスト教に改宗しながらユダヤ教の習慣を守る多くの改宗ユダヤ人が 「異端審問」 にかけられ、拷問を受け、自白を引き出され、有罪とされ、処刑された。 1554年にはゲットー(ユダヤ人集団隔離居住区域)が世界で初めてヴェネチアに設置され、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制した。 その後、ゲットーは急速に西ヨーロッパ各地へ広まり、約300年間存続した。 西ヨーロッパのユダヤ人の全てがゲットーに収容されたという訳ではないだろう。 西ヨーロッパのユダヤ人の中にもゲットーに収容されなかったユダヤ人が沢山いたと思われる。 ゲットー内のユダヤ人は貧しい生活をしていた訳ではなかった。 ゲットー内のユダヤ人の中には、大きな特権を享受していた裕福なユダヤ人が沢山いた。 また、ゲットーに収容されなかったユダヤ人の中にも、大きな特権を享受していた裕福なユダヤ人が沢山いたと思われる。 彼ら裕福なユダヤ人は西ヨーロッパ諸侯の高級官僚や宮廷御用商人になっていたので、「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」 と呼ばれた。 彼らは天性の商才によって、莫大な富を成した。 この宮廷ユダヤ人について具体的に紹介しよう。

大航海時代(15世紀後半~17世紀前半)における商業の世界的拡大は重商主義(自国の産業を保護育成し、輸出を奨励し、輸入を制限し、貿易差額によって資本を蓄積して国富を増大させようとする立場)を生み出した。 重商主義は、16世紀以降成立した絶対主義国家の君主にとって自国の富国強兵を図る為の最良の思想となった。 こうした経済発展のもとで、ユダヤ商人は次第にギルド(商工業組合)の厳重な統制から解放され、彼らの経済活動は大いに有利な方向へ変化していった。 封建制が遅くまで残り、小さな封建領主がひしめいていたドイツでは、国際商品取引網と金融力とを持っていたユダヤ商人は特に必要とされた。 17、8世紀のバロック時代から19世紀に至るまで、ドイツ諸侯でユダヤ商人を側近として持っていなかった者は殆ど居なかった。 その当時、ドイツほど宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)の経済力に依存した国は他になかった。 例えば、ドイツの分裂と衰退を決定的なものにした三十年戦争(1618~1648年)の際、フォン・ヴァレンシュタイン将軍はカトリック側に立って、神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世のために傭兵隊を組織したが、その財源はハプスブルク家の宮廷ユダヤ人ヤコブ・ハセヴィにより提供されたものであった。 また、バイエルン王国の筆頭宮廷ユダヤ人アーロン・エリアス・ゼーリヒマンは、1802年にバイエルン王国の税収入を担保に取り、300万フランケンをバイエルン王国に融資し、その6年後には同国の関税収入を担保として、400万フランケンを貸し付けた。

プロイセンの首相ビスマルクと皇帝ヴィルヘルム1世の経済顧問であった宮廷ユダヤ人銀行家ゲルソン・フォン・ブライヒレーダーは、普仏戦争(1870~1871年)に勝ったドイツがフランスから取るべき賠償金の額を決定した人物であった。 ビスマルクはこの宮廷ユダヤ人に彼個人の財産管理の全てを託していた。 ビスマルクは、この宮廷ユダヤ人に相談することなくプロイセン王国の財政や戦費を動かすことはなかったという。

アウグスブルク(南ドイツの主要都市)の大商業資本家ヤコブ・フッガーによるローマ教皇や諸侯に対する高利貸し付けは有名である。 16世紀、フッガー家により始められた王侯・貴族に対する貸し付けは宮廷ユダヤ人を生み出し、20世紀初頭までドイツの王侯・貴族とユダヤ人資本家との間には深い結びつきがあった。

ヘッセン侯国の宮廷御用商人として出発したロスチャイルド家が金融業百年(1804~1904年)を記念した出版記録には、ヨーロッパ諸国の王侯・貴族の多くがロスチャイルド家の融資を受けていることが記されている。 ロスチャイルド1世(メイヤー・アムシェル・ロスチャイルド、1744~1812年)の妻グトレが、戦争の勃発を恐れた知り合いの夫人に対し、「心配には及びませんよ。 私の息子達がお金を出さない限り、戦争は起こりませんからね」 と答えたという。 宮廷ユダヤ人研究の権威ハインリッヒ・シュネーは、三十年戦争(1618~1648年)から解放戦争(1813年~1814年)に至るまで、ユダヤ人の資金無しで行なわれた戦争は殆ど無かったと指摘している。 ロスチャイルド1世は長男を除く4人の息子のそれぞれを西ヨーロッパ列強の首都(ロンドン、パリ、ウィーン、ナポリ)に派遣して次々と支店を開業させた。 そして、その4人の息子のそれぞれはロスチャイルド家の支家となった。 このように、19世紀に入ると、宮廷ユダヤ人は立派な 「宮廷銀行家」 として、西ヨーロッパ諸王国の財政を左右するほどの力を持つまでになった。 そして、絢欄豪華な絶対主義王朝下で宮廷ユダヤ人は金・銀・宝石等の供給者として大儲けをしていた。 彼らは君主の委託のもとで自らの所有する金・銀・銅で硬貨を作って供給した。 多くの宮廷ユダヤ人の富はしばしばこの貨幣鋳造業の請負に由来するものであった。

以上のように、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は大きな資金を西ヨーロッパ諸侯に提供し、君主の財産を管理し、国際商取引の代行者として、極めて重要な役割を果たした。 彼らは君主から多くの特権を与えられ、ゲットーでの居住から解放され、多くの義務を免除された。 金融力によって最強の宮廷ユダヤ人となったロスチャイルドは、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない 「男爵位」 を得た。

ユダヤ人の歴史に詳しいある研究家は次のように述べている。 「王侯貴族の財産を管理する『宮廷ユダヤ人』となることこそ、当時の彼らが到達し得る最高の栄誉だった。 そもそも、金融システムは西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人によって作られたのである。 中世のヨーロッパでは、キリスト教徒は利子を取ることを禁じられていたため、野蛮な職業とされていた金貸しなどの金融業はユダヤ人にあてがわれていた。 商品売買業か金融業しか認められていなかったユダヤ人は、その二つのどちらかに就くことを強いられていた。 17世紀に神聖ローマ帝国が弱体化すると、西ヨーロッパ諸侯は皇帝権力からの脱却を目指して独自に領地を支配するようになっていったが、、西ヨーロッパ諸侯にとっては、深刻な官僚不足と、貨幣の原料となる銀の不足が問題となってきた。 そこで、金融取引のノウハウを持って幅広く商取引を行なっていた西ヨーロッパのユダヤ人は西ヨーロッパ諸侯の高級官僚や宮廷御用商人になり、国家権力の中枢に入り込み、君主の委託のもとで自らの所有する金・銀・銅で硬貨を作って供給し、金融を通して西ヨーロッパ諸国家に対する大きな影響力を持つようになっていった。 幾多の弾圧や追放により世界中に離散させられた歴史は世界の各地に『信頼できる同業者ネットワーク』を生み出した。 彼ら宮廷ユダヤ人はこのネットワークを使って、貿易などの商取引に深く関わり、為替取引を発達させた。 当時の船は海賊に襲われることが多く、船が沈んだら、投資家たちはただ損をするだけであった。 そんな中で、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は 「貿易商人たちから保険料を集め、万が一の時の損失を肩代わりする」 という保険業を誕生させた。 また、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は事業のリスクを多人数で負うという株式会社の原理をも生み出した。 西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人は、財産が没収されるというリスクを負って生きていた為、無記名の銀行券を発行させて流通させた。 これは後に欧州各国が中央銀行において紙幣を発行する際に応用されたシステムである。 このように、西ヨーロッパの宮廷ユダヤ人こそ金融システムを構築した人々である」。

ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトは次のように述べている。 「もし、ユダヤ人たちが北半球諸国に分散移住していなかったとしたら、近代資本主義経済は生まれなかっただろう」。

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