0448年 ハザール人と「ハザール王国」の誕生

■■「ハザール王国」の誕生

●7世紀中頃、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅び、ハザール人は彼らの支配から離れることができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。

ハザール人は勢力を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中に納め、はては、クリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。(クリミア沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた)。

 

ハザール(カザール)王国は7世紀にハザール人によって黒海北岸からカスピ海にかけて築かれた巨大国家である。 この国は9世紀初めに国民の大部分がユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない“ユダヤ人以外のユダヤ教国家”となった。 この謎に満ちたハザール王国の歴史を誕生から滅亡まで、大雑把に追っていきたい。

第1章  ハザール王国の誕生
ハザール王国の揺籃の地はカスピ海沿岸の草原である。 この草原には多種多様な民族が居住していた。 旅行家・地誌家や東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の著述家は、これらの民族が絡む様々な事件についての記録を後世に残した。 ただし、ハザール人がいつ頃登場したのかについての具体的な記録はない。 西暦448年、東ローマ帝国からフン族の王アッチラへ送られた使節団の報告の中に、戦士民族としてのハザール人が登場している。 この時期のハザール人はフン族の支配下で活動していたようである。 アッチラの死後、フン帝国が崩壊すると、東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。 すると、そこに幾つもの遊牧民が次々と押し寄せた。 6世紀初頭、ハザール人は南コーカサス(現グルジアと現アゼルバイジャン)を占領した。 6世紀においてハザール人はコーカサス山脈の北にいる種族の中で最も有力な種族となった。 その後、ハザール人は台頭してきた突厥の支配下に組み込まれた。 西暦627年、東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオスはササン朝ペルシャ帝国との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。 ハザール軍は4万人の兵力でササン朝ペルシャ帝国の首都クテシフォンに迫った。 この時がビザンチン史料にハザール人の初登場するときである。 7世紀中頃、ハザール人は突厥の支配から脱して独立し、ハザール王国(カザール王国)を建てた。 ハザール人は勢力を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服従させ、黒海北部沿岸地方・クリミア半島を掌中に収めた。

第2章  イスラム教勢力との戦いと東ローマ帝国との同盟

ハザール王国が国力を充実させていた頃(7世紀後半)、新たな敵が南方から台頭してきた。 新興のイスラム教勢力である。 イスラム軍はその眼差しを北方に向け、コーカサス地方でハザール軍と戦闘を交えた。 特に西暦721年から737年までは、イスラム教勢力とハザール王国との間で大きな戦争が続いた。 イスラム軍は繰り返しコーカサス地方に侵入し、都市を破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を略奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去った。 しかし、ハザール軍はイスラム軍に執拗に抵抗し、イスラム軍の北コーカサスへの侵入を阻止した。 イスラム史料では、この戦争で双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。 この戦争以降、ハザール王国とイスラム教勢力との戦争に関する記録はない。 この戦争の後、ハザール王国とイスラム教勢力との関係は落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。

イスラム軍は西暦711年にジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼし、更にピレネー山脈を越えてフランク王国に入ったが、西暦732年、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗北し、ピレネー山脈の南に退いた。 イスラム軍は東方では中央アジアまで進出したが、西暦751年、タラス河畔の戦いで唐に敗れ、120年間におよんだイスラム教徒の征服戦争は終了した。

ハザール王国は7世紀前半にはササン朝ペルシャ帝国と戦い、7世紀後半からはイスラム教勢力と激しい戦いを繰り返したが、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)とは同盟関係にあった。 ハザール王国と東ローマ帝国の同盟関係は次の出来事に象徴されている。 東ローマ帝国の皇帝レオン4世(在位775年~780年)はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。 彼は、前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれた混血であった。 この結婚は、東ローマ帝国とハザール王国の友好を願って、西暦732年に行なわれた。 イスラム軍のコーカサス地方への侵入以降、ハザール王国の首都はカスピ海西岸のサマンダルに移され、更に、ヴォルガ川下流域のイティルに移った。 ハザール王国は8世紀末まで平和を享受した。

 

第3章  キエフ大公国の台頭とハザール王国の衰退
■新たな強敵ルス人の台頭とユダヤ教への改宗
8世紀に入ると、新たな強敵が北方から台頭してきた。 北方民族ヴァイキングの一派ルス人(後のロシア人)である。 彼らは8世紀半ばには現在のヨーロッパ・ロシア北部に「ルーシ・カガン国」という都市国家群(中心都市はノヴゴロド)を形成した。 9世紀に入ると、ルス人はヴォルガ川を使って南下し、カスピ海にまで進出した。 また、この時期のハザール王国内では、国の将来を左右する大きな変化が生じていた。 8世紀末から9世紀初頭にかけて、ハザール王オバデアの国政改革(799~809年)により国民の大部分がユダヤ教に改宗し、ハザール王国は世界史上、類を見ない“ユダヤ人以外のユダヤ教国家”となった。 彼らはユダヤ教に改宗しただけでなく、「自分たちは血統的にもアブラハムの子孫である」とし、ユダヤの仮面をつけた。 しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は次第に悪い結果を生み出していった。 もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。 ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとか統一されていた国内の微妙なバランスを崩すことになった。 ハザール人の貴族の間では、ユダヤ教を受容する国王派と、ユダヤ教を受容しない地方貴族派との対立が目立つようになった。 こうした不安定情勢の中で、西暦834年、ハザール王は、ルス人の侵入に対する砦の建設援助を東ローマ帝国に求め、「サルケル砦」が建設された。 このサルケル砦のおかげで、ドン川の下流域やヴォルガ・ドン水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。 西暦835年頃、ハザール王国内で地方貴族派により反乱の火の手が上がったが、国王派が勝利した。 反乱者の多くは殺され、一部は国外に逃れた。 この反乱は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。 この反乱貴族は家族とともにアゾフ海東岸近くのロストフに亡命した。 ロストフはルス人の商人団が築いた根拠地である。 ここでルス人の商人団長の娘とハザール反乱貴族の息子との婚姻が行なわれた。

西暦862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。 ルス人リューリクが率いるルーシ・カガン国の軍勢が、それまでハザール王国の支配下にあった主要都市キエフを無血占領したのである。 その後、キエフはルス人の町として発展し、現在のヨーロッパ・ロシア北部からドニエプル川上流域・中流域とドン川上流域にまたがる広大な「キエフ大公国」が成立した。 10世紀半ばまでの間、ルス人の攻撃は主として東ローマ帝国に向けられていた。 ルス人とハザール人との間には摩擦や衝突はあったものの、この両者は交易を基礎とした関係を結んでいた。 ハザール人はルス人の交易ルートを押さえ、東ローマ帝国やイスラム帝国を目指してハザール王国を通り抜けていく交易物資に10%の税金を課していた。

■ハザール王国の衰退
東ローマ帝国とキエフ大公国とは互いに紆余曲折はありながらも、次第に親交を深め合うようになった。 それに連れて、ハザール王国の地位は低下していった。 東ローマ帝国とキエフ大公国との交易物資に10%の税金を課すハザール人の存在は、東ローマ帝国の官僚にとってもキエフ大公国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となった。 9世紀末から、ルス人の艦隊がカスピ海沿岸を侵略し始めた。 そして、10世紀に入って西暦913年、800隻からなるルス人の大艦隊がカスピ海沿岸にやってきて、事態は武力衝突へ進んだ。 この侵略によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。 西暦965年、キエフ大公国のスビャトスラフ大公はハザール王国に戦争を仕掛け、ハザール王国のサルケル砦を落とし、ハザール王国の都市を次々に攻略し、首都イティルを攻撃した。 これらの攻撃によりハザール王国は衰退した。

12世紀に作成されたキエフ大公国の『原初年代記』によれば、西暦986年にハザール王国のユダヤ教徒がキエフ大公国のウラジミール公(在位:980年~1015年)にユダヤ教への改宗を進言したとある。 しかし、ウラジミール公は西暦988年に先進的な文明国であった東ローマ帝国からキリスト教を取り入れ、自国にキリスト教文化を広めた。 また、同じ時期にウラジミール公は東ローマ帝国の王女アンナと結婚した。 これによって、ハザール王国と東ローマ帝国との同盟は解消し、キエフ大公国と東ローマ帝国との「対ハザール同盟」が成立した。

その当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、東ローマ帝国・イスラム帝国(アッバース朝)・ハザール王国の3つであった。 東ローマ帝国の王女アンナはキエフ大公国のウラジミール公に嫁いだが、王女アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげなく拒否した。 理由は格が違うというものであった。 その王女アンナがウラジミール公に嫁いだということは、東ローマ帝国とキエフ大公国の格が違わなかったことを示している。 それはキエフ大公国がハザール王国の後継であると思われていたからであった。 ウラジミール公が、東ローマ帝国の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(可汗)というハザール特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映している。

西暦1016年、「対ハザール同盟」を結んでいたキエフ大公国と東ローマ帝国との連合軍がハザール王国に侵入した。 ハザール王国東部の諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われ、ハザール王国西部(クリミア半島含む)では、被害は比較的少なかったが、それでも都市は荒れて、交易路は乱れた。 ハザール王国はそれ以降13世紀半ばまで、領土はかなり縮小したものの、なんとか存続し、ユダヤ教の信仰を保持した。


10世紀後半のヨーロッパとオリエント

 

第4章  キプチャク・ハン国の成立とハザール王国の滅亡

キエフ大公国は西のカルパチア山脈から東のヴォルガ川にかけて、南の黒海から北の白海にかけて勢力を誇るようになった。 しかし、キエフ大公国は11世紀後半から内乱に悩まされ、更に遊牧民族クマン人(ポロヴェツ人)の執拗な攻撃を受けるようになった。 この結果、キエフ大公国の人々は徐々に北の森林地帯(ノヴゴロド、モスクワ)へ移っていった。 こうして、12世紀前半にキエフ大公国は分裂し、ノヴゴロド公国をはじめとする幾つかの独立国が割拠することになった。 東ローマ帝国は、キエフ大公国がハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と交易の中心になるだろうと見ていたが、そうはならず、キエフ大公国の衰退は早かった。

西暦1223年、かつてハザール王国があった地域にモンゴル軍が現われた。 この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの別働隊であり、カスピ海の南回りでコーカサスを通り、南ロシアを荒らした。 そして、西暦1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫バトゥ・ハンもヨーロッパ遠征に出発した。 バトゥ・ハン率いる遠征軍はヴォルガ川中流域からロシアに侵入し、ロシアの主要都市(モスクワ、キエフなど)を次々に攻略し、更に、ポーランドとハンガリーにまで攻め込んだ。 第2代モンゴル帝国皇帝オゴタイ・ハン(チンギス・ハンの三男)が亡くなると、バトゥ・ハン率いる遠征軍はヴォルガ川まで後退し、西暦1243年、ヴォルガ川下流河岸の都市サライを首都として 「キプチャク・ハン国(西暦1243年~1502年)」 を建てた。 こうして、キプチャク・ハン国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸国は従属国となり、ここにロシア人の言う 「タタールの頸木(くびき)」 が始まった。 キプチャク・ハン国の首都サライは、またの名を「イティル」と言った。 イティルはかつてハザール王国の首都であった。 これらのことから、キプチャク・ハン国が西暦1243年に建てられた時点でハザールの中心部(イティル)はバトゥ・ハンの権力に吸収され、ハザール王国は完全に滅亡したことが分かる。

ハザール王国が完全に滅亡した頃、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残した。 西暦1245年、ローマ教皇イノセント4世はキプチャク・ハン国の首領バトゥ・ハンに使節団を送った。 新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった。 使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にキプチャク・ハン国の首都サライに到着した。 この使節団の長だった修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。 その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある。 そのリストの中でコーカサス山脈の北に住む人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで 「ユダヤ教を信じるハザール人」 の名がある。 今のところ、この記録が民族としてのハザール人についての最後の公式記録とされている。

ハンガリーの歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8~9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。 それは8世紀~9世紀において、マジャール人(ハンガリー人)はハザール人に支配されていたからである。 しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも、困惑をあらわにし、次のように述べている。
「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。 支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。 いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。 しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。 このユダヤ教への公式の改宗は、東ローマ帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行なわれた。 しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろ、ほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。 これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである」。

第5章  ハザール王国に対する欧米歴史学者の評価

カール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠した頃(西暦800年)、コーカサス山脈とヴォルガ川との間はハザール王国によって支配されていた。 その勢力の絶頂期は7世紀から10世紀にかけてであった。 この王国は近代ヨーロッパの運命をも左右する重要な役目を果たした。 欧米の歴史学者はキリスト教側からの視点で、このハザール王国が果たした役割を高く評価している。 アラブの歴史学者だったら、イスラム教側からの視点で、また違った評価を下すであろう。

ハザール史の指導的権威であるコロンビア大学のダンロップ教授は次のように述べている。
「ハザール王国はアラブ軍の侵攻を遮るような位置にあった。 モハメッドの死(西暦632年)の数年後、アラブ軍は2つの帝国を残骸と化して嵐のように通り抜け、すべてを奪い去り、コーカサス山脈の大障壁に達した。 この障壁を越せば、ヨーロッパヘの道が開けている。 しかし、コーカサスの地で組織的なハザール兵力がアラブ軍を迎え撃ち、アラブ軍の長征がこの方向へ伸びるのを防いだのである。 100年も続いたアラブ人とハザール人の戦いはほとんど知られていないが、このような歴史的重要性を持っている。 カール・マルテルに率いられたフランク人はツールの平野でアラブ人の侵攻の潮流を変えた(西暦732年のトゥール・ポワティエ間の戦い)。 同じ頃、ヨーロッパに対する東からの脅威もそれに劣らず大きかったが、勝ち誇るアラブ軍はハザール軍に押し止められた。 コーカサスの北方にいたハザール人の存在がなければ、東方におけるヨーロッパ文化の砦であるビザンチン帝国はアラブ人に包囲され、キリスト教国とイスラム教国の歴史は今日我々が知っているものとは大きく違っていただろう。 それにはほとんど疑いの余地はない」。

ソ連の考古学者で歴史学者のアルタモノフも次のように述べ、ダンロップ教授と同じ見解を示した。
「9世紀に至るまで黒海の北、隣接する草原地帯とドニエプル川の森林地帯でハザール王国に対抗できる集団はなかった。 150年間にわたってハザール王国は東ヨーロッパ南半分の並ぶ者なき王者であり、アジアからヨーロッパへ通じるウラル・カスピ海の出入口を守る強力な砦となっていた。 その期間、彼らは東からの遊牧民の猛襲を押し戻していたのである。 ハザール王国は東ヨーロッパ最初の封建国家で、ビザンチン帝国やイスラム帝国にも匹敵する。 ビザンチン帝国が耐えられたのは、コーカサスへのアラブの潮流に対抗したハザール王国があったからである」。

ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士も次のように述べ、同じ見解を示した。
「ハザール王国は東ヨーロッパ諸国の歴史に大きな役割を演じた。 アラブ人の侵略に対する盾の役割である。 盾といっても単なる盾ではない。 他国の民なら名を聞いただけでも震え上がる猛将が率いるアラブ軍の攻撃を何度も撃退した盾である。 ハザール王国の役割は、ビザンチン帝国にとっても掛け替えのないものであった。 ハザール王国との戦争を遂行するため、アラブ軍はその大勢力を、ビザンチン帝国との国境から常に遠ざけざるを得なかった。 ハザール対アラブの戦争が行なわれる間は、ビザンチン帝国はアラブ勢力に対し、ある程度であるとしても、軍事上の優位を保持することができた。 イスラム帝国の北辺を侵すようにハザール王国をけしかけたのはビザンチン帝国であり、それも一度にとどまらなかったことは疑問の余地がない」。

オックスフォード大学のロシア史の教授ドミートリ・オボレンスキーも次のように述べている。
「北に向かったアラブ人の侵略に対してコーカサスの前線を守りきったことが、ハザール人の世界史への大きな貢献である」。

第6章  『ハザール 謎の帝国』 訳者の前書き
「ハザール王国」の歴史については、S・A・プリェートニェヴァ著『ハザール 謎の帝国』(新潮社)が詳しい。 参考までに、この本の「訳者まえがき」を抜粋しておきたい。 かなり重要なことが書かれている。 因みに、訳者の城田俊氏はモスクワ大学大学院終了のロシア語教授である。
──訳者の前書き──
ハザールの首都発見のニュースが日本中を駆け巡ったのは訳者が本書を訳しかけていた1992年8月のことである。 「カスピ海の小島に防壁と古墳」(毎日新聞)、「ユダヤ帝国ハザール幻の首都? ロシアの学者・日本の写真家ら発見」(朝日新聞)、「東欧ユダヤ人のルーツ解明に光」(読売新聞)、これらが大新聞の紙面を飾った見出しであるが、謎の国ハザールについての日本最初の大々的新聞報道を胸躍らせて読んだ人はあまり多くはなかったのではなかろうか。 それほどハザールは日本ではなじみがない。 ハザール人は6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。 出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来、アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。 トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。 彼らは近隣の民族を圧倒し、7世紀中頃、王国を築き、カスピ海沿岸草原、クリミア半島に覇を唱えるが、キリスト教のビザンチン帝国とイスラム教のアラブ帝国の狭間に立ってユダヤ教を受容して国教とするという史上稀有に近い行動をとった。 王国の底辺を支えた民の人種は雑多と想像されるが、国家建設の中核となったのは、170年余にわたって万里の長城の内外で中国と激烈な死闘を演じ、遂に唐の粘り強くかつ好智にたけた軍事・外交の前に敗れ去り、新天地を求めて西へ走った突厥の王家、阿史那(あしな)氏の一枝であったこともまた興味を引くところである。 まさに東西交流の要所にあって、両者を強く結びつける役をはたした民族であり、国家であった。 マホメットの死後まもなくアラブ勢力は急速に強大化し、近辺諸国を片っ端から征服し始めた。 北に向かった大軍勢はコーカサスヘと突入するが、それに立ちはだかったのは雪を頂く峨峨たる山脈だけではない。 要所要所を固めていたハザールの組織的軍隊であった。 ハザール防衛軍は伝統的騎馬戦闘術(例えば馬車による円陣)までも繰り出して、果敢な抵抗を行ない、アラブ侵入軍を幾度も南へと撃退した。 もし、アラブ軍がコーカサス山脈を通り抜ければ、東ヨーロッパは勿論、中央ヨーロッパヘの道は広々と開かれていた筈である。 ロシアもポーランドもハンガリーも、はては、チェコもイスラム化したかもしれない。 ハザールはアラブとの戦役を1世紀あまりに渡り闘い抜き、イスラム教勢力の東方からのヨーロッパ侵入を食い止め、現在あるかたちでのキリスト教世界を守ったのである。 それは、カール・マルテル指揮下のフランク王国騎兵軍がピレネー山脈を越えて進撃してきたアラブ軍をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃退したのに比肩される歴史的大功績である、と言うキリスト教世界の学者もいる。 しかし、一方は歴史の教科書に大書され、ヨーロッパ人には常識となるに対し、ハザールの「功績」は忘れられ、無視されてきたのは、そのルーツが我々と同じアジア人であったためであろうか。 それとも国教がユダヤ教であったためであろうか。 ユダヤ人はローマ帝国により国家を奪われ、国無しの民として世界に離散流浪し、迫害に晒されるが、中世に至って、ハザールというユダヤ教国が東方の遥かかなたの草原のどこかにあるという噂を耳にし、驚喜し、鼓舞され、ハザール国探索活動を展開した。 最も熱心かつ精力的であったのは、10世紀中葉、スペインのコルドヴァ王国の外交・通商・財政の大臣の地位にあったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトであった。 彼は、恐らく世界各地に張り巡らされていたであろうユダヤ商人の情報・連絡網を頼りに、遂にハザール国王に手紙を届け、返書を受け取ることに成功した。 2人の往復書簡は千余年の時の破壊力に耐え、現在に伝えられ、学者によって解読された。 また、前世紀末にはカイロのユダヤ教会堂の文書秘蔵室から大量の古文書が出てきたが、その中にハスダイの探索活動やハザールのユダヤ教徒の救済活動に関する文書が発見され、ハザール国の内情がより細密に描けるようになった。 これだけでも伝奇に満ちた一篇の物語となるが、ハザール史そのものは現在に生きる我々に興味尽きない問題と謎を投げかける。 中東和平を契機に世界各地でユダヤ人問題への関心が高まっている。 政治や国際関係に関心がない人でも、学芸分野や政界・経済界でのユダヤ人天才・実力者の活躍には目を見張らざるを得ない。 このように世界で耳目を集めるユダヤ人の大部分は、モーセなど『旧約聖書』に登場するユダヤ人とは全く関係なく、10世紀末、ルシ(ロシア)に滅ぼされた後、東欧に離散したハザール人の末裔であるという説が広まっている。 もし、これが本当なら、血で血を洗う戦争を繰り返し、今も流血の惨事を日常的に引き起こす原因となったイスラエル建国とは一体何だったのか、ということになりかねない。 そのような説が正しいかどうか、曲がりなりにも判断するためには、ハザール史のある程度正しい知識が我々に必要となろう。 ハザールが東アジアの島国に住む我々日本人にとって何故面白いかは、日本の建国に関し騎馬民族説が声高に唱えられるということだけではない。 ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。

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