BC07000年 マネーの起源

マネーの起源

紀元前7000~6000年頃、明確な形で家畜が飼われ、原始的な麦が栽培され、穀物生産が増大することにより、人類ははじめて「富」を蓄積できるようになった。穀物の蓄積効果は、農業に定着した人々とそうでない人々に「富の差」をもたらした。そうでない人々を遊牧民族とれば、彼らは農民を襲撃して富を略奪した。そこで発達したのが「武器」である。攻める方も攻められる方も「武器」を作った。武器に使用したのが銅であった。その後、銅に錫や砒素を混ぜて作った青銅は銅に比べてはるかに硬く、それを保有したほうの力は強力になった。しかし、青銅は貴重であったため、富を持った側、すなわち農民しか入手できなかった。その結果、農民は集団を形成し効率的に自分達を守るようになった。それが国家へ発展する。その間約3000~4000年かかった。
メソポタミアでは、農民と遊牧民が混在し毛織物の生産が急速に発達した。毛織物によって富を生み出した。それは古代の産業革命といえるだろう。しかし彼等は銅を持たなかったため、毛織物を活用した長距離交易によって金、銀、銅、その他贅沢品を調達した。メソポタミアはB.C.2300年頃に統一された。
エジプト地方ではシナイ半島の銅山が開発され(B.C.3900)、ナイル川から砂金を採取した。その銅による武器が貢献し、エジプトはメソポタミアより早いB.C.3100に統一された。各文化圏の交易を発達させたのは「文字」といわれている。交易の記録(債権、債務)を残すことが可能だったからである。その後の銅の生産拡大は、副産物の銀の蓄積に貢献した。銀は同より希少価値が高いため、次の時代のマネーへ発展する。金属は希少性が高いほど価値があった。すなわち金、銀、銅の順位がついた。そしてこの時期にマネーが誕生する基礎的条件が整った。それは、
①長距離交易の発展、②文字の発達、③都市国家の成立である。
b.c.1800年頃アッシリア商人が、銀を毛織物の買い付け代金として支払っていた事例がある。この銀は「計算貨幣」として使われていた。銀がマネーとなった役割としては、銀の現物価値より重要である。計算貨幣とは「価値の尺度」のことである。

金は、中東地域で富すなわち財宝として蓄積された。B.C.3900~2100年までの期間、全世界で900トンの金が生産されたが、そのうち700トンがエジプトで生産された。B.C.2100~1200年頃全世界で2600トンの金が生産され、内エジプトで1600トンが生産されている。中央アジアでは250トン、イベリア半島で200トン。B.C.1200~50年頃になると、全世界で4000トン、エジプトでは900トンに減少した。バルカン半島で500トン、中央アジアで600トン、イベリア半島で1100トンである。
7世紀、中東でイスラム・アラブ帝国が興隆した。彼らは金を財宝としてしまいこむ(退蔵)ことなく、貴金属をコインに鋳造して流通に投入した。イスラムのコインは世界通貨の役割を果たした。

ヨーロッパが「金属から紙」に動き始めたのは12世紀からである。ヨーロッパは多数の都市国家が現れ、交易が盛んになったが、都市国家の権力は小さく「紙幣」を流通させることはできなかった。
イスラム教徒から聖地を奪回する十字軍は、大量の略奪品、貴金属を中東から持ち帰り、貴金属の準備と貨幣流通が増大した。ヨーロッパは急速に規模を拡大させた。A.C.1000~1300年の間に人口は4倍に貨幣の必要量は40倍になった。そのため不足する銀のため銀貨の銀の含有量を減らすしかなかった。そのため、流通していた銀貨の名目価値と実質価値の乖離が急速に進んだ。
※ ヨーロッパには「ブルグ」「ブール」の語尾がつく都市がある。これは十字軍の時代、通常は住ん
でいないが、略奪者達が現れたときに非難し、抵抗する砦があったところである。十字軍は遠征費
用を支給されていないので、自分達で武器、食料、旅費を調達した。遠征の途中で住民から徴発した
と考えられる。彼らはその時ブルグに非難したが、帰路では彼らの戦利品にたかった。
交易の拡大とコインの実質価値の下落は、ヨーロッパ型紙幣の発生に大きく影響した。交易の拡大に伴う代金決済の方法として「為替」が発展した。「為替」は、債務者と債権者を結びつける交換条件である。約束手形は請求書であり、これを提示したものには、記載された金銭を支払うことを約束している。為替手形はマネーを代替できた。A-B間取引、B-C間取引、C-A間取引があったと仮定した場合、各々の代金を為替手形で相殺すれば、現金が必要になるのは差分だけであり、貨幣の節約に大きく貢献した。
一方、国々によって種々の貨幣が作られたため、その価値を確認する品質評価、重量の測定をする必要が発生した。そのわずらわしさから逃れるため、1609年にオランダにアムステルダム銀行が設立された。アムステルダム銀行は、種々の貨幣を評価し手数料を差し引き、自国の通貨に変換して預け入れを認めた。交易業者は、その預金を振替えてもらうことを支払手段とした。アムステルダム銀行は、預金しても利子がつかなかったし、貸付を行わなかった。
遅れをとったがイギリスでも、貴金属=マネーの問題が発生した。一時は、王家のロンドン塔に保管していたが、1640年に財政に困窮したチャールズ1世がそれを没収しようとしたために、別手段として考え出されたのが、イギリスから始まる紙幣の歴史といわれている。そして商業者達は、蓄積した貴金属の預け先として、金細工・加工を行う金工房、金匠:総称ゴールド・スミスの金庫を利用した。彼らは商売柄安全な金庫を保有していた。ゴールド・スミスでは、保管料を受け取り、「ゴールド・スミス・ノート」と呼ばれる預かり証を発行した。最も古い預り証は1633年である。
1650年になると、ゴールド・スミスに貴金属=マネーを預けた人が、自分に代わって貴金属=マネーを受け出すことを依頼できるゴールド・スミス宛の手形を作り出した。これは現在の「小切手」に相当する。小切手を持参した者へ、銀行が指定の金額を支払う仕組みである。これを「金匠宛手形」と呼ぶ。そして受取人は、再度ゴールド・スミスへ貴金属を預けたため、結果的にゴールド・スミスは貴金属の所有者の名義を書き換えるだけであった。
そんな事業を行っていたゴールド・スミスに、マネーの貸し出し依頼が起こった。本来自分のものでないマネーを貸し出すことはできない。しかし、現実には金庫に保管されているだけで誰も引き出さない貴金属=マネーを、短期で貸しても問題ないだろうと考えた。政府へ貸せば20~30%の高利が得られた。
そして1680年代に入るとゴールド・スミスは、マネーを借りた者にはその金額を当座預金としてゴールド・スミスへ預けさせ、その代わり「金匠手形=約束手形」を発行した。ゴールド・スミスは、この手形の持ち主には、記載された金額の貴金属=マネーを支払うことを約束した。さらに重大な工夫が加えられていた。それは、支払い先に「または持参人」の文言が加えられたことと、その信用を高める「裏書」システムである。裏書は、発行人が了解している合法的譲渡であったことを証明した、持参人払システムである。この仕組みにより、紙でできた約束手形がマネーの変わりを果たすようになった。
もうひとつ、重要なポイントがある。ゴールド・スミスは、保有している貴金属預金額以上の約束手形を発行したのである。それは身代の20倍にもなったことがあった。預金を基礎としてはいたものの、肥大化した貸付量は、マネーを創造すること、ないところから作り出すカラクリである。それを可能にしたのは、誰も現物の貴金属の払い出しを請求してこないからである。アムステルダム銀行との違いは、約束手形の発行とマネーの創造である。

しかし、この時期(A.C.500~1000年)の期間に金生産は900トンしかない。その一部は、インド、中国、日本などであった。すなわちイスラム文明は、過去の遺産としての黄金の上に築かれた文明だった。彼らは有史以来、中東に蓄積された貴金属を世界にばらまく役割を果たした。
一極集中の財宝をばら撒いたイスラムには何が残ったのか。何も残らなかった。文明も取り残されてしまった。それが今は原油に代わっている。オイル・マネーとして世界から資金が集まっている。ドバイの繁栄は目を見張る。しかし、200年後のドバイはどうなっているだろう。金から原油へ富が変わったが、人間は変わっただろうか。

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