1775年4月19日 レキシントン&コンコード / 「世界に響きわたった銃弾」から始まるアメリカ革命

「PLANET ROTHSCHILD」から翻訳して掲載します。


APRIL 19, 1775 LEXINGTON & CONCORD / AMERICAN REVOLUTION BEGINS WITH ‘THE SHOT HEARD AROUND THE WORLD’

レキシントン&コンコード / 「世界に響きわたった銃弾」から始まるアメリカ革命

 

The Massachusetts Militia is storing guns and ammo in the town of Concord, MA.

マサチューセッツ州民兵は、マサチューセッツ州コンコードに銃と弾薬を保管している。

 

About 700 British troops are sent to seize the military supplies.

約700人の英軍が軍需品を押収するために送られる。

 

Patriot leaders learn of the British plan and begin organizing.

愛国的指導者たちは英国のその計画を知り、それに備えた。

 

The night before the scheduled British raid, Paul Revere takes off on his famous “Midnight Ride” to warn the local militiamen (Minutemen).

予定されていた英国の襲撃の前夜、ポール・リビアは地元の民兵(ミンテメン)に警告するため、有名な「ミッドナイト・ライド、警鐘を鳴らす者」を実行する。

 

The first shots are fired as the sun begins to rise in Lexington, MA.

マサチューセッツ州のレキシントンで朝日が昇りだしたとき、最初の銃声が響きわたる。

 

The militias are outnumbered and fall back as the British advance upon Concord.

英軍がコンコードに進軍するにつれて、民兵の数が多くなったため、後退を始めた。

 

At Concord, approximately 500 “rag tag” militiamen fight and defeat the King’s troops.

コンコードでは、約500人の「ぼろきれ」民兵たちが戦い、国王軍を敗北させた。

 

The “red coats” retreat after a pitched battle in open territory.

「レッド・コート」は、激戦後に最初に開戦した場所まで後退した。

 

More militiamen arrive soon thereafter and inflict heavy damage on the British, firing upon from behinds trees as they march back towards Boston.

その後、より多くの民兵たちが到着し、イギリス軍がボストンに逃げかえる間にも木陰から発砲され、大きな被害を被った。

 

The war for American independence is on! The Battle of Lexington and Concord will go down in history as “the shot heard around the world.”

アメリカの独立戦争が始まった! レキシントンとコンコードの戦いは、「世界に響きわたった銃声」として歴史に残ることであろう。


 

以下、補足記事

https://blue.ap.teacup.com/qmss/2605.html

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日本では「ミッドナイト・ライド」などと聞けば、夜半に二輪車または四輪駆動でもって走り回る若者をイメージする。アメリカではもともと1775年4月18日の夜半に、レッドコートたち(イギリスの国王陸軍)のコンコードへの武器差し押さへのための進軍に対して、「警鐘」をならすための夜駆けを行った人たちを指すことが多い。

三人の名は、ポール・リビア、ウィリアム・ドーズ、サミュエル・プレスコット。リビアがボストンから駆け出すと、チャールズ川を渡りメッドフォードからレキシントン、コンコードへと向かったのに対し、ドーズはチャールズ川を大きく迂回して馬を走らせ、ロクスベリーからブルックリン、ケンブリッジを回ってリビアに加わった。レキシントンをを過ぎたところでプレスコットが加わったが、三人ともイギリス陸軍の警備兵につかまってしまう。

今でこそ、ブルックリンなどは「T」と呼ばれる地下鉄(路面電車)でボストンから直ぐの距離にあることを実感するが、当時は馬であり、夜は街灯などもない真っ暗な中を走ることとなり、危険を伴うことであったことでありましょう。

警備兵に止められた三人だったが、プレスコットが周辺の地理に詳しかったことから即座に抜け出すことに成功をし、コンコードのペイトリオッツ達に警報を届けた。

当時のボストンは、人口1万6千人に対して、レッドコートの人々は4千人という信じられないような兵士の数でありました。イギリス国王軍の駐留は多大な経費が伴っており、重税に苦しむ植民地の人々への監視の目は人々の生活を圧迫する象徴でありました。

1770年5月5日、ボストンの税関の建物の前で騒いでいた市民3人をレッドコートが発砲をして死亡させた事件は、人々の本国へのいら立ちをいやがうえにも駆り立てることとなった。皮肉にもレッドコートを無罪に導いたのは第2代大統領となるジョン・アダムズ弁護士でありました。発砲は、手当たり次第の物を投げ続ける市民側のなかで「撃て!」という叫び声が上がったことに対するレッドコート側の反応であった、ということでありました。

73年12月3日、ボストン・ティー・パーティが、インディアンに扮したサミュエル・アダムズ、ジョン・ハンコックたち約100人によって、ボストニアンたちが見守る中で行われる。74年、議会は「イントレラブル(コーアーシブ)・アクト」によりボストニアンにレッドコートへの食料供給、増税を押し付ける。アメリカの他の12植民地は、「はじめて」他のコロニーであるマサチューセッツに食料などの支援を行うこととなりますが、このときまで各植民地は「共同」で何かをすることはなく、それぞれが「最もイギリス本国と近しい関係にある」と自負をしていたわけであります。13のコロニーの人々は「イギリス人」であることに誇りを持ち、国王と議会のある本国との関係が植民地のあり方の「すべて」であったのでありました。

74年9月5日から10月26日まで、ジョージアを除く12植民地はフィラデルフィアに55人の代表が集まり、議会と国王に対するアピールを採択するが、独立までを求めることはなかった。

75年4月のミッドナイト・ライドのあと、5月には大陸会議が再度召集をされ、ジョージ3世がまったく植民地の意向を汲むことはないことを確認、ここに、独立への結束が固まってゆくのでありました。植民地のなかで一つでも抜け駆けが出てイギリス本国と結託することを恐れていたのでありましょうか、大陸会議が公式に独立への意志を採択するのは翌年の1776年6月のことでありました。すでに実質的な戦闘が行われているなかでの独立へのマニフェストの採択でありました。7月4日には独立宣言を発している。

ジェファーソンはジョージ3世とともに奴隷制も徹底的に批判をした独立宣言を書き上げますが、個々の部分はサウス・カロナイナとジョージアが多くの奴隷労働に依存をしていたことから削除をされました。ジェファーソン自身も多くの奴隷を抱えたプランテーションの所有者でありました。

ともあれ、命を賭けて人々のために「警鐘を鳴らす者」。社会はこれらの人々により救われる時があることを歴史は示している。

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